2018年 11月 12日 ( 1 )

2018年 11月 12日
鬼室神社,白村江の戦い後・その1
鬼室(きしつ)神社に行って来ました。鬼室神社は滋賀県蒲生郡日野町小野にある小さな神社です。

入り口の案内板には「近江朝廷が大津に都を定めた頃,現在の韓国,時の百済から我国へ渡来した多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓碑がこの神社の本殿裏の石祠に祀られているところから社名がつけられました。古くは不動堂といい…」と記されています。
墓碑にちなんで鬼室神社と名付けられたのは1950年(昭和30年)です。

しかし,案内板のこの説明はあいまいです。
鬼室集斯は,百済王に次ぐ権力者であった鬼室福信の縁者と言われています。鬼室福信は660年7月に百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされた後,百済復興運動を組織するとともに,10月に倭国(まだ日本の国名はなかった)に,当時日本にいた百済の王子豊璋を復興運動の中心にすべく,彼の帰国と援兵を求めます。時の天皇(天皇の名称はまだなく大王)斉明女帝は百済復興運動救援のための出兵を命ずると共に,翌661年1月,老齢(67歳)をおして自ら九州に赴き指揮をとります。7月,彼女は朝倉宮で死去しますが,中大兄皇子は称制(しようせい,天皇の位に就かず,政務をとること)し,指揮を継続します。(詳しくは拙文「韓国を語る前に① −道徳的債務者との別れ− 9−3,」をご覧ください)

しかし,663年,白村江の戦いで大敗し,復興運動は失敗します。豊璋は高句麗に逃れましたが,やがて唐に連行されます。鬼室集斯は一族と共に日本に亡命し,近江に住むことになりました。やがて学識頭(のちの官僚養成機関の大学寮の№2)に就くきます。鬼室集斯は単なる渡来人でも,単なる文化人でもありませんでした。

※写真はクリックすると拡大します。
d0006690_11304861.jpgバス停の鬼室神社前を降りると,韓国風の建物が目に入ります。

案内では「休憩所」とされていましたが,韓国ではよく見かける停子(チョンジャ)です。

日野町は鬼室福信を祀る祠のある韓国忠清南道扶餘郡恩山面と姉妹都市交流をしていますが,2009年11月に交流20周年を記念して,周辺の整備ととともに建てられました。

d0006690_11311713.jpg建物は鬼室集斯にちなんで「集斯亭」と名付けらています。

d0006690_11314079.jpgバス亭近くの道路の標識です。簡単すぎて見逃してしまうところですした。

ハングルで鬼室神社の韓国語読み「クィシル シンサ」と書かれています。

d0006690_11315482.jpg神社入り口の石塔です。
文字はうっすらとでしたが,「鬼室神社」と読めます。

d0006690_11321292.jpg神社の本殿です。社務所はもちろんのことこの建物以外の建物はありません。祭神は鬼室集斯です。

d0006690_11323556.jpg本殿裏の石祠です。
中には高さ50センチ弱の八角柱状の鬼室集斯の墓碑が納められています。

ウィキペディアによれば,墓碑銘の真贋について,室町時代のものではないかとの学説に対して,滋賀文化財保護協会は,「仮に百歩譲って,墓碑やこの記述が作為的に捏造されたものだとしても鬼室集斯と大字小野を結びつける何かがあったからだと考えるべきである。それが単なる伝承であろうともよいわけで,鬼室集斯を祭神とした鬼室神社が日野町大字小野にあるという事実だけで十分である」としています。

d0006690_11324984.jpg本殿の手前右のムクゲです。
案内板にの文字はかすれていますが,「姉妹都市提携 記念植樹」とは読めました。
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by gakis-room | 2018-11-12 18:00 | 韓国あれこれ | Comments(2)