2009年 03月 04日
−道徳的債務者との別れ− 9−3,韓国を語る前に①
3.白村江の戦いの前後
 660年,百済は新羅・唐連合軍によって滅ぼされた。その3年後の663年,百済再興の支援のため派遣された倭(日本)軍2万7千人は白村江(錦江)河口で唐水軍によって壊滅させられた。いわゆる白村江(はくすきのえ)の戦いである。

 白村江の戦いは,その出兵の経緯・規模からいっても異常である。660年,百済が滅亡した後,百済の有力者鬼室福信が救援要請のために倭に来たのが同年10月。時の天皇斉明(天皇の呼称は日本書記編纂前後からで,当時天皇の呼称はなかった)は救援をきめるとともに,皇太子中大兄皇子・中臣鎌足等と共に翌年の1月には自ら九州朝倉に赴いた。

 老齢の女帝自らが前線指揮をしようというのである。宮のひとりを総大将として派遣したのではない。天皇自らが皇太子を引き連れての前線指揮なのである。このようなことはこの国の歴史の中にかつてあったであろうか。まさしく異例としかいいようがない。しかし,斉明天皇は661年7月現地で死去する。皇太子中大兄皇子は喪服のまま指揮をとり続けたという。そして彼が天智天皇として正式に即位したのは斉明天皇の死去から7年後の近江京においてである。

 662年8月,軍船4百隻・兵力2万7千人の倭軍は白村江の戦いで唐の水軍に敗れ,壌滅した。新羅についてはともかくも,唐については,その軍事力を含めた強大さを何回かの遣唐使を通じていやというほど熟知していたはずである。白村江の戦いは,唐からの倭への一方的侵略に対する祖国防衛ではない。自ら挑んだ戦いである。そして,老齢の女帝みずからが九州にまで赴いて,あたかも国家の一大事のごとく倭は総力をあげた支援態勢をとったのである。

 倭がそれほどまでに百済に関わらなけれぱならなかった理由は何であろうか。戦いに敗れた倭は,唐・新羅の進攻に備えて664年,対馬・壱岐・筑紫にはじめて防人を置き,烽(狼煙の設備)を設置する。翌665年以降,筑紫・長門から高安に至るまで,水城あるいは山城を相次いで築城する。倭の深刻な動揺がうかがえる。ついで都を近江に移した667年,多数の亡命百済人に官位を与えて近江に居住させた。

 前述したように天智天皇が正式に即位したのは,前帝斉明の死去から7年後の,668年1月,近江京においてであった。なお,朝鮮の歴史書「三国史記」によれぱ,倭が「日本」と自称するようになったのは,670年10月のことだという。なぜ,倭は前後を顧みる事なく百済に関わったのであろうか。超大国である唐とあえて一戦を交えたのであろうか。この理由について歴史家はほとんど答えてくれない。

 興味深い二書がある。ひとつは,「日本書記は独立宣言書だった」(山科誠,角川書店)である。山科誠はこの中で,白村江の戦いの後,「天智天皇はいままでの宗主国百済からの独立をめざして日本書記の編纂を命じた」としている。

 いまひとつは日本の植民地支配イデオロギーの曲学阿世とされた言語学者,金沢庄三郎の「日鮮同祖論」の復刻版(東アジア叢書六,成甲書房)である。編者林英樹は解説の中で,植民地支配イデオロギーとしての「日鮮同祖論」は金沢庄三郎の本意ではなかったとしたうえで,百済王家と倭王家は血縁関係で結ばれており,倭による百済救援軍の派遣は「天皇の実家が百済であったことによると解するのが合理的」という。

 なお,同書では,古事記の編者太安万侶は,百済人,安万侶(アン・マンリョ)で,太(オオノ)は名字ではなく尊称であったとしている。

 小説ではあるが,おもしろいのは「消えた王国」(崔仁浩,スコラ杜)である。韓国の日刊紙朝鮮日報に長期連載され,その後,大河ドラマとしてテレビ放映のあったこの小説は,斉明天皇は百済の滅亡時の王であった義慈王の妹であり,中臣鎌足は百済から派遣きれた監察使であり,日本は百済人が打ち建てた亡命政府であるとしている。もっとも,この点について,韓国の歴史学者はその箸「金教授の日本談義」(金鉱球,桐書房)の中で歴史的事実として認定しがだいと批判しているが,是非はともかくも韓国の庶民的歴史認識のひとつかもしれない。いずれにせよ,自村江の戦いは私にとって依然として不可思議な謎なのである。

【補注】
私は「消えた王国」(崔仁浩,スコラ社)を読んではいない。この小説は中村欽哉によって翻訳(全5巻)されているが,書店に注文しても取り寄せることができなかった。
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by gakis-room | 2009-03-04 09:20 | 韓国を語る前に | Comments(16)
Commented by saheizi-inokori at 2009-03-04 22:37
日本史、世界史ともに大学受験の選択科目であったのに、しかも割と得意な科目だったのに、今はもう基本的な事実ですら忘れています。
謎を感じるまでにも至らない。
もっとも網野善彦は日本は日本の古代史の通説に根本的な疑義を唱えているかのようです。
その内ちゃんと読もうと思いながらまだ寄り道ばかりです。
Commented by gakis-room at 2009-03-05 08:36
saheiziさん,
歴史学は実証主義ないしは文献主義ですが,私の場合は想像力だけの素人談義の気楽さです。
Commented by tona at 2009-03-05 09:45 x
このシリーズ興味深く読ませていただきました。
斉明、天智、天武、持統天皇あたりの歴史が好きです。
百済が滅亡したので、そん亡命百済人が多数日本に住んで、貴重な文化が日本にもたさられ、ラッキーなことだったと考えてよろしいのでしょうか。
Commented by saheizi-inokori at 2009-03-05 09:58
崔という人のことは四方田犬彦の本で知りました。
面白そうですね。
Commented by convenientF at 2009-03-05 11:05
この時代のヨーロッパのことなら相当しているのに、最も近い親戚のことを何も知らなかったことに気づいてやや自己嫌悪です。
Commented by gakis-room at 2009-03-05 14:30
tonaさん,
ラッキーと言えばラッキーなのでしょうが,百済が滅亡していなければ,はるかに大量にそして継続的に文化の移入があったと思われます。
Commented by gakis-room at 2009-03-05 14:36
saheiziさん,
崔仁浩はBSで放映していた「商道(サンド)」の作者です。
Commented by gakis-room at 2009-03-05 14:38
CFさん,
私も隣国への関心は最近のことです。偶然と言えば偶然とも言えます。
Commented by イネ at 2009-03-06 23:40 x
今回の白村江の戦いについての文章はとても面白かったです。
そうですか、老齢の女帝が九州に赴いて指揮を執ったのですか。
近い関係だったのでしょうね。
Commented by gakis-room at 2009-03-07 08:24
イネさん,
本家の一大事,それで後先考えずに出兵したと私は考えています。それにしても大化改新で滅ぼされた蘇我氏だけは,なぜあのような名前で記録されたのでしょうか,馬子,蝦夷,入鹿。本名ではありますまい二。
Commented by イネ at 2009-03-07 12:52 x
>それにしても大化改新で滅ぼされた蘇我氏だけは,なぜあのような名 前で記録されたのでしょうか,馬子,蝦夷,入鹿。本名ではありますま  いに。
恥ずかしながら、gakisさんがおっしゃる意味がわかりません。しかしそのうちわかってくるかもしれないので、今のところわかったふりでーす。

旧友と長野旅行をすることになりました。高校生のころ、長野市に住んでいたので、ちょっと善光寺さんのこと知っておかなきゃと今公式ホームページを読みました。そしたら善光寺縁起に蘇我さんや物部さんが関係者として出てきました。
しばらく頭の中に?を貯めておきます。この頃は困るほど貯まって。
Commented by gakis-room at 2009-03-07 16:34
イネさん,
「馬子,蝦夷,入鹿」は本名ではなく辱めた名前だと思っています。百済系とされる蘇我一族ですが,「本家の一大事」に駆けつけた中大兄皇子派らがそれほどまでに入鹿らを憎む理由は,入鹿らが天皇一族に取って代わろうとしたか,あるいは本家・百済からの分離独立をはかったのではないかと思うのですが。

善光寺の本尊は物部氏に捨てられた仏像だったように覚えています。
いい旅になりますように。
Commented by イネ at 2009-03-08 12:38 x
gakisさんどうもありがとうございました。おかげさまで頭の中がかなりすっきりいたしました。もしかしたら貶めた名前がずっと今に伝わっているかもしれないのですね。聞いたことがあるような、、、
いい旅ができそうです、ありがとうございました。
Commented by gakis-room at 2009-03-08 14:07
イネさん,
私の考えはあくまでも素人の想像です。もっともこの想像に自分自身は納得していますが。
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-12 22:36
この記事を読んでコメントもしていたのに肝心なところをすつかり忘れていました。
ネトウヨや在特が読んだら逆上しますね。それとも彼らは無意識に朝鮮を親として感じていて反抗しているのかもしれないなあ。心理学の問題。
Commented by gakis-room at 2018-11-13 07:53
saheiziさん,
日本が大きな影響を受けた漢文化の「カン」の半分は「韓」かな,
なんて思っています。


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