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2018年 11月 13日
百済王神社,白村江の戦い後・その2
大阪府枚方市にある「百済王神社」に行って来ました。
百済王神社は,百済復興運動のため百済に帰った豊璋の弟,善光(禅広)(?ー693)にかかわる神社です。

豊璋は百済復興運動の頓挫し,高句麗に逃れますが,660年,高句麗が唐により滅ぼされた時,唐に連行され,その後の行方は判りません。

日本にはもう一人王子が滞在していました。豊璋の弟,善光(禅広)(?ー693)です。白村江の戦いの敗戦によって故国を失い,そのまま日本にとどまりました。その後,持統朝(690年即位)になると「百済王(くだらのこにきし)」の姓を与えられ,持統4年には後の正広肆(のちの三位相当)の贈位を得ています。

善光のひ孫,百済王敬福は,聖武天皇(724−749在位)による大仏建立にさいし,大仏塗金のための黄金900両を献上し,749年(天平21年),従三位に叙せられ,宮内卿・河内守に任ぜられました。これを機に百済王氏一族は摂津国百済郡(現,大阪市天王寺区南東部・生野区西部〜東住吉区北中部?)の居住地を離れ、河内国交野郡中宮の地(枚方市中宮)に住まいを移し,氏寺百済寺と神社(祠廟)を建立したと考えられています。

百済寺は10世紀頃には廃寺となったようです。百済王氏の祠廟が百濟王神社となった経緯は不明ですが,17世紀後半には神社として存在していたようです。祭神は「百済国王」と「牛頭天王(ごずてんのう)」(1868年の神仏判然令により進雄命,すさのおのみことと改名)です。

なお,昨日の鬼室神社とは氏子による相互参拝があるようですが,神社のホームページの「祭神」の説明のように,神社としては百済ないしは朝鮮半島への特別の意識はないようです。

【ご祭神 百済国王】
百濟國王について,「沿革」の項で記した通り,歴史を紐解けば渡来人としての性格が表立ちますが,当社の氏子地域では日本古来の産土神としての信仰が強く,当社の祭祀は伊勢神宮を本宗とし,天皇を仰ぎ、天神地祇八百万の神を信仰する神道に属します。
 そのご利益について、昨今、黄金九百両にまつわる史実より,商売繁盛,事業成功,家門繁栄,さらには武人としての百済王氏の一面が浮き彫りになるなか,必勝成就、旅行安全などのご利益が囁かれています。

※写真はクリックすると拡大します。

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_11502528.jpg【神社入り口の階段】
この階段を上ると,神社の正面の鳥居前に出ます。

神社への行き方はもう一つあって,この階段を右へ50メートルほど行くと入り口を示す鳥居に出ます。

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_11594730.jpg【右からの入り口】
先ほどの階段からは緩やかな坂になっていますが,この入り口からはさらに緩やかな道なっています。

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_11504084.jpg【正面の鳥居】
扁額はもちろん「百濟王神社」です。

1713年(正徳3年)の建立です。

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_115132.jpg【拝殿】
2001年(平成13年)に新しく建立されました。

旧拝殿は1836年(天保7年)に再建されたもので,現在の拝殿の向かって右側に社務所と向き合う形で移築されています。

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_11512376.jpg【拝殿の扁額】

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_11513965.jpg【神社本殿】
拝殿の奥の本殿です。1828年(文政10年)春日大社の古社殿を移築しました。

祭神は百済王,進雄命(すさのおのみこと)です。 

百済王神社,白村江の戦い後・その2_d0006690_11515819.jpg【旧拝殿】
1836年(天保7年)に再建されたものです。

by gakis-room | 2018-11-13 18:00 | 韓国あれこれ | Comments(2)
Commented by saheizi-inokori at 2018-11-13 21:43
国家意識のない頃、スサノオと百済の王と併せて祀ったのでしょうか。
いよいよネトウヨに教えてやりたい。
Commented by gakis-room at 2018-11-14 07:44
saheiziさん,
スサノオ朝鮮半島起源説もありますね。
これなどはネトウヨは卒倒します。


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