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2015年 04月 30日
きょうは6月中旬並の暑さでした
d0006690_17413944.jpgきょうの最高気温のランキングです。上位はすべて東北地方です。(午後4時現在)
  1位 青森県・三戸  30.0度
  2位 岩手県・川井  29.9
  3位 岩手県・二戸  29.2
  4位 岩手県・軽米  29.1
  5位 秋田県・横手  29.0
  6位 山形県・新庄  28.9
  〃  秋田県・角館  28.9
  8位 岩手県・岩手松尾 28.8
  9位 山形県・高畠  28.7
  〃  岩手県・花巻  28.7
  〃  岩手県・好摩  28.7 
  〃  秋田県・大館  28.7

昨年の6月3日には「上位15地点はすべて北海道」という日もありましたが,そこまで極端ではないにしろ,東北,北海道は暑かったようです。「今年最高」を記録したのは北海道(46/173地点),東北(20/161地点)を中心に,全国の観測地点927のうち95地点でした。

奈良はと言えば,きょうの最高気温は27.0度(6月中旬並)で,27日の27.7度に次いで2番目の暑さでした。4月の「夏日」はこれで6回目です。これは観測史上7位タイの多さです。

それで,4月の最高気温は? と言えば,20.1度で観測史上15位タイです。上旬から中旬にかけての「寒の戻り」が最高気温の月平均を押し下げました。とまれ,明日から3日間は27度超えのようです。
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by gakis-room | 2015-04-30 18:00 | つれづれに | Comments(0)
2015年 04月 29日
キツネアザミの短い生涯
d0006690_12362785.jpgキツネアザミ キク科 キツネアザミ属

「近くの公園」です。背丈は30センチ位で,褐色のまとまった蕾と特徴的な葉が目につきました。初めて見る草です。キツネアザミと教えていただきました。

キツネアザミは,2010年5月25日に見ています。この時は自宅マンションの自転車置き場前の空き地で,花はすでに開花しており,背丈は1メートル前後でした。前回の時は花と背丈だけに気を取られて葉をよく見ませんでした。

撮影は4月19日です。キツネアザミの蕾の先端は薄いピンクです。蕾の色といい,その付き方といい,とてもキツネアザミとは思えませんでした。

d0006690_121115100.jpg4月28日です。

蕾もそれぞれに伸び,まだ楕円ではなく球形に近いですが,その先端もピンク色となって,キツネアザミらしくなりました。

ただ,何かの拍子に(誰かによって)倒されたらしく,茎は根元から横向きとなり,蕾の部分だけが上に伸びていました。まだ生きています。

私が見たのはこれ1本だけでしたから,なんとか持ちこたえて花を咲かせてほしいと思いました。

d0006690_1221324.jpg4月29日。
「近くの公園」では朝からたくさんの人(天理教の信徒さん)が出て,一斉に除草作業です。

それで,昼前には「近くの公園」はすっかりきれいになりました。もちろんキツネアザミも取り残されることはありませんでした。キツネアザミの短い生涯が終わりました。

左の写真は前回,2010年5月のものです。マンションの自転車置き場前の空き地では何本ものキツネアザミがすくすくと成長しています。


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by gakis-room | 2015-04-29 18:00 | 花の手帳 | Comments(0)
2015年 04月 28日
栽培大根が野生化した?,ハマダイコン
d0006690_13535111.jpgハマダイコン(浜大根) アブラナ科 ダイコン属

ハマダイコンかと思います。海岸の砂地に生えるので,「浜」大根でしょうか。珍島の海岸で見ました。

ハマダイコンは栽培ダイコンの野生化したものと言われてきましたが,最近では,栽培種が逸出して野生化したものでなく,大陸から古い時代に渡来した野生ダイコンの後代とも言われています。

それで,根ですが,大根よりはずっと細くゴボウに近い感じです。また,硬くてその上とても辛いそうで,食用にはなりそうもないとのことです。

背丈は30センチほどですが,70センチ程度まで伸びるようです。

d0006690_13592142.jpg花径は1センチほどです。4弁の花弁はアブラナ科の特徴である十字形です。

花弁の端が薄い紅紫色であるところはダイコンの花と同じです。稀に白花もあるようです。

花後にはうすいえんどうのくびれを大きくした莢状の実をつけるようです。

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by gakis-room | 2015-04-28 18:00 | 花の手帳 | Comments(0)
2015年 04月 27日
白い白い花だよ,カラタチ
d0006690_16285441.jpgカラタチ ミカン科 カラタチ属

漢字では「枳殻」あるいは「枸橘」です。中国原産の落葉低木で,樹高は2〜4mほどです。葉は花の後からのようです。

カラタチと言えば「トゲ」を思い出します。北原白秋の「からたちの花」(山田耕筰作曲)です。

  からたちの花が咲いたよ  白い白い花が咲いたよ
  からたちのとげはいたいよ 青い青い針のとげだよ

私はバラのトゲくらいに思っていましたが,無数の「青い針のとげ」は長いものは3cmほどになります。そのトゲを利用して,かつては外部からの侵入を防ぐために生け垣としてよく利用されていたようです。
  からたちは畑の垣根よ
  いつもいつもとおる道だよ

また,鋭いトゲと言えば,朝鮮王朝時代の流刑の1つに「囲籬安置」があります。これは流刑地での住居を鋭いトゲを持つ垣根で囲い,外部との接触を断つものです。まさか,カラタチで囲ったのではないと思いますが,実際のところは私には不明です。

d0006690_13473612.jpg花径は2〜3センチほどです。

花のあとには3から4センチの球形で緑色の実をつけ,秋には熟して黄色くなるようです。

  からたちも秋はみのるよ。
  まろいまろい金のたまだよ

果実には種が多く,また酸味と苦味が強いため食用にならないとのことですが,果実酒の材料には使われる見たいです。「カラタチ酒」,どんな味なんでしょうか。


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by gakis-room | 2015-04-27 18:00 | 花の手帳 | Comments(0)
2015年 04月 26日
あれこれ,韓国の旅・その3
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d0006690_1781561.jpg【瀟灑園(ソセウォン)】
全羅南道(チョルラナムド)潭陽(タミャン)郡にある瀟灑園は,朝鮮王朝第11代中宗時代初期の高級官僚であった梁山甫(ヤンサンボ,1503ー1557)が隠棲した地です。

彼は師の趙光祖(チョガンジョ,1482ー1519)が失脚して,配流,自死に追い込まれると,官職を捨て,俗世を離れてこの地に住みました。隠棲の地と言っても,渓流を含む自然の中にいくつかの建物を配した立派な庭園で,韓国の三大庭園の1つに数えられています。

確かにこの中の建物の1つに座っているだけで,なんとなく落ち着いた気分になります。しかし,官職を捨てた後,彼は生活の糧をどのようにして得ていたのか,そもそもこの建物群の建設費はどのように工面したのか気になりました。日本でも,鴨長明など閑居生活をした有名人はたくさんいますが,地主であったのか,官職の間にそれだけの蓄えをしたのか,同様の疑問を持っています。俗物の私です。

d0006690_8415894.jpg【メタセコイア並木】
これも全羅南道潭陽郡です。メタセコイアが2.1kmほど続きます。

メタセコイアはヒノキ科メタセコイア属の針葉樹で,1科1属です。秋には紅葉します。和名はアケボノスギです。生育は1年で1mほどと早く,最終的には3〜40mになるそうです。なお,この並木道への入場は有料で,1000ウォン(約110円)です。

韓国では1970年代初期に全国的な並木造成事業が行われたようですが,ここでは3〜4年ものの苗木が植えられましたが,現在ではこのような高さの並木道をつくっています。2002年,韓国の山林庁と生命の森栽培国民運動本部により「最も美しい並木」に選ばれた場所だそうです。

なお,メタセコイアの並木道は滋賀県高島市マキノ町にもあり,こちらは2.4kmです。1994年(平成6年)に読売新聞社の「新・日本の街路樹百景」に選定されています。2010年には主婦の友社が選定した「日本紅葉の名所100選」のひとつにもなっています。

d0006690_1785349.jpg【ケバン・ファジャンシル(開放化粧室)】
街中で見た看板です。「ケバン」とは開放,「ファジャンシル」とは化粧室,つまりトイレのことです。

「開放化粧室」は公衆トイレではなく,私的なトイレですが,誰もが自由に利用できるように開放されていると言うことです。ここだけでなく,他の所でも見ました。日本にはないシステムかと思います。

d0006690_179611.jpgここが開放主のレストランです。私たちはここで3日目の昼食をとりました。














【ハック旅行のハプニング】
三泊4日の韓国旅行は走行距離1,115kmのバス旅でした。パック旅行ですから,すべてお任せの気楽さでした。当然のこととして,それぞれの場所での滞在時間も自由にはなりません。そんな不便さはありましたが,珍島の海割れと南漢山城が私の目当てでしたから,このツアー自体には不満はありませんでした。いたるところで桜とツツジを見ることもできました。

3日目,ソウル市内に入ってからハプニングがありました。少し急な坂でバスがエンストを起こしました。原因はガス欠です。15分ほど運転手は悪戦苦闘していましたが,坂の下までバックで戻り,残余のガソリンをだましだまししてなんとか夕食の場所にたどりつきました。

夕食には「お詫び」として,ビール1本がつけられました。「15分の遅延でビール1本」ですから,「この程度なら毎日あってもよかった」とは私を含めた仲間の感想です。なお,夕食後のバスは運転手を含めて交代でした。プロにあるまじき失策をした運転手はきつい叱責を受けたことだろうと思います。
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by gakis-room | 2015-04-26 18:00 | 韓国あれこれ | Comments(0)
2015年 04月 25日
役に立たなかった南漢山城,韓国の旅・2
d0006690_12514624.jpg南漢山城(ナマンサンソン)はソウルの南東25kmにある,山の稜線を繫いだ全長11.7kmの城壁に囲まれた山城(海抜500m)です。2014年に韓国としては11番目の世界遺産に登録されました。

山城とは,平城に対する立地の違いだけでなく,有事には,軍民が籠城して敵に対抗するための根拠地となります。文禄慶長の役の時の幸州山城(ヘンジュサンソン)がその典型です。

南漢山城の場合は,城内に行宮,宗廟,社稷(しゃしょく)も作られ,臨時首都的機能をも持ちます。正祖による華城も同様です。

d0006690_12521475.jpg城内は比較的平地で,45カ所の池と80以上の井戸も掘られました。食糧の備蓄あれば,数万人の兵力の受け入れも可能だったようです。

このような首都的機能は朝鮮王朝の第16代国王仁祖(インジョ,在位1623ー1649)3年の1626年に完成しました。折しも満洲では女真族の後金(後の清王朝)が強大となり,南下の兆しを見せ始めていました。実際に,後金は1636年に南下侵入します(丙子胡乱)。

この時,仁祖は1万数千人の兵とともに南漢山城に入場し,後金に対抗します。しかし,仁祖はわずか47日で開門し,後金に降伏しました。食糧の備蓄も少なく,補給もできなかったからです。城を出た仁祖は都(漢陽)の郊外の三田渡(サムジョンド,現ソウル特別市松坡区三田渡)で「三跪九叩頭の礼」(三度跪き、その都度三度頭を地にこすりつける,計九度)をもって謝罪し,後金に臣下の礼を尽くす盟約を結ばされました。

後にはその地に「大清皇帝功德碑」まで建立させられました。植民地にこそなりませんでしたが,朝鮮王朝としては,20世紀に日本の植民地となったことを除けば最大の屈辱となりました。

上の写真は,南門(至和門)で,手前が城外です。下の写真は復元された行宮です。行宮をゆっくり見て回りたかったのですが,ツアーのため時間がとれず,残念でしたが遠くから眺めるだけでした。

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by gakis-room | 2015-04-25 18:00 | 韓国あれこれ | Comments(0)
2015年 04月 24日
珍島の海割れ,韓国の旅・1
【追記】
海割れの回数を訂正しました。

d0006690_12173855.jpg20日〜23日,誘われて「珍島の海割れと韓国自然紀行4日間」なるツアーに参加しました。

珍島(チンド)は朝鮮半島南西部の島で,済州島,巨済島についで3番目に大きな島です。この島と東南2.8kmにある茅島(モド)との水深は5〜6mですが,ここは干満差が大きく,毎年3月〜5月の大潮の時には海道ができます。この「神秘の海道」が,天童よしみが「珍島物語」で歌った「海割れ」です。

今年の「海割れ」は3月20日〜23日,4月18日〜21日の2回です。間違いです。1月〜5月,11月,12月に計31回です。最大のものは2月20,21日の早朝です。

d0006690_12181426.jpg私の行った4月21日は今年最後の「海割れ」の日です。残念ながら海道は全部ではなく,半分くらいしか現れませんでした。写真の青線に沿って道ができます。

天童よしみの歌では曖昧ですが,歌の中の家族の別れとは以下のような物語です。

【ポンお婆さんの伝説】
朝鮮王朝時代の初期の頃,珍島に虎がでて人を襲うようになりました。村人たちは難を逃れるために茅島に逃れましたが,なぜかポンお婆さんだけが取り残されてしまいます。ポンお婆さんは家族に会いたくて,茅島の見える海岸に出て,毎日,海の龍王に祈りを捧げました。するとある日のこと,夢の中に龍王が現れて,「明日は虹を掛けるから海を渡るがよい」と告げます。

翌日,ポンお婆さんが海に出てみると,対岸の茅島まで虹のように海道が現れました。茅島に逃れていた村人たちが,その海道を村に走っていってみるとポンお婆さんが祈っていました。お婆さんは家族,村人との再会を喜び,海の龍王に感謝しながら息を引き取ります。

その後,村人たちは毎年3月(陰暦)に,ポンお婆さんのために祭祀を行うようになりました。以来,子どものいない人,愛をかなえられない人が祈れば,願いが叶うと伝えられるようになりました。

「海割れは自然現象のため,必ず鑑賞できるとは限りません。鑑賞できなかった場合でも旅行代金の返金はございませんので,あらかじめご了承ください」とは、旅行パンフレットの但し書きですが,海道の半分は見えましたから,「私の願い」もおぼろな輪郭程度には叶うのでしょうか。

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by gakis-room | 2015-04-24 18:00 | 韓国あれこれ | Comments(2)
2015年 04月 21日
東京の鳥居・その3,これも鳥居です・烏森神社
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d0006690_1982171.jpg路地が横切っていますが,参道から見た東京新橋の烏森(からすもり)神社の鳥居と社殿です。

鳥居とは思われないような形の鳥居と,その奥に同じ形の社殿が見えます。

d0006690_1984031.jpg鳥居を横から見ました。

d0006690_199075.jpg社殿です。

案内板によると,社殿は「伸びゆく新橋の地に相応しい 近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し 昭和46年12月 氏子の熱意により竣工をみたもの」とのことです。1971年(昭和46年)の造営ですから,比較的新しいものです。

それにしても希有な形の社殿です。なお,鳥居は「平成5年9月 建之」とありましたから,鳥居は社殿に併せた意匠かと思われます。

神社の創建は古く,平将門の乱の折,これを鎮圧に向かった藤原秀郷が940年(天慶3年)にここで戦勝を祈願したとも,あるいは勧請したとも言われていますから,千年以上の歴史を持つようです。

d0006690_1991881.jpg境内の狛犬です。吽形(うんぎょう)は子連れでした。


蚕の社の三柱鳥居から始まって,京都三珍鳥居,番外そして,東京の鳥居を見て来ました。鳥居の形についてはこれまで気にも止めませんでしたが,珍しい形の鳥居があるものです。またいつの日にか変わった形の鳥居に出会えればと思っています。


京都の三珍鳥居・その1,蚕の社の三柱鳥居
京都の三珍鳥居・その2,伴氏社の鳥居
京都の三珍鳥居・その3,厳島神社の鳥居
京都の三珍鳥居・番外その1,日乃出稲荷社の奴禰(ぬね)鳥居
京都の三珍鳥居・番外その2,野宮神社の黒木鳥居
京都の三珍鳥居・番外その3,車折神社の屋根付き鳥居
京都の三珍鳥居・番外その4,安井金比羅宮の角鳥居
京都の三珍鳥居・番外その5,大酒神社の八角鳥居
東京の鳥居・その1,四神の彫刻のある鳥居・虎ノ門金刀比羅宮
東京の鳥居・その2,双龍の彫刻ある鳥居・品川神社
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by gakis-room | 2015-04-21 18:00 | つれづれに | Comments(2)
2015年 04月 20日
東京の鳥居・その2,双龍の彫刻ある鳥居・品川神社
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d0006690_1840432.jpg品川神社の入り口の鳥居と社殿への階段です。鳥居の左右の柱に龍の彫刻が施されています。

このように龍がほどこされた鳥居を「双龍鳥居」というようです。「双龍鳥居」を持つ神社は東京(あるいは全国?)では,3社しかないそうです。他の2社は馬橋稲荷神社(杉並区阿佐谷)と高円寺境内の稲荷社(杉並区高円寺)です。

この3基の鳥居を「東京三鳥居」と言うそうです。

d0006690_18402248.jpg左の昇り龍です。

現在のものは1925年(大正14年)の建造です。

d0006690_18405086.jpg右の降り龍です。

d0006690_18411780.jpg社殿です。
品川神社は,1187年に源頼朝が海上交通の安全と祈願成就の守護神として,安房国の洲崎明神から勧請し,品川大明神と称したのが始まりだそうです。やがて,徳川家康が関ヶ原の戦に出陣の折,戦勝を祈願し,後に神輿と神楽面を奉納します。徳川3代将軍家光の時,幕府の修復所となり,綱吉,家慶によって社殿の再建がなされました。

また,1868年(明治元年),明治天皇は人臣の安寧と国の栄えの祈願のため,東京の十社に勅使を派遣しましたが,品川神社もその1つで,准勅祭神社となりました。

d0006690_18413658.jpgこうした由来からでしょうか,社殿の鬼瓦には16菊紋と三つ葉葵がありました。

d0006690_18415697.jpgここでも三つ葉葵の紋が使われています。

d0006690_18421838.jpg神楽殿です。

ここでの神楽は品川神社太々神楽(だいだい・かぐら)と呼ばれ,東京都無形文化財です。面,装束の多くは徳川幕府からの奉納品で,現在も使われているそうです。

また,例大祭は六月7日に近い日曜日を中心に行われ,徳川3代将軍家光によって寄贈された神輿(現在は2代目)が出されます。

d0006690_18423555.jpg神社の裏(南側)には板垣退助(右)とその夫人(左)の墓がありました。

京都の三珍鳥居・その1,蚕の社の三柱鳥居
京都の三珍鳥居・その2,伴氏社の鳥居
京都の三珍鳥居・その3,厳島神社の鳥居
京都の三珍鳥居・番外その1,日乃出稲荷社の奴禰(ぬね)鳥居
京都の三珍鳥居・番外その2,野宮神社の黒木鳥居
京都の三珍鳥居・番外その3,車折神社の屋根付き鳥居
京都の三珍鳥居・番外その4,安井金比羅宮の角鳥居
京都の三珍鳥居・番外その5,大酒神社の八角鳥居
東京の鳥居・その1,四神の彫刻のある鳥居・虎ノ門金刀比羅宮
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by gakis-room | 2015-04-20 18:00 | つれづれに | Comments(2)
2015年 04月 19日
東京の鳥居・その1,四神の彫刻のある鳥居・虎ノ門金刀比羅宮
※写真はクリックすると拡大します。
d0006690_16223419.jpg東京都港区の虎ノ門金刀比羅宮です。

【虎ノ門金刀比羅宮の由緒】
1660年(万治3年)に讃岐(香川県)丸亀藩主であった京極高和が,その藩領内である象頭山の金刀比羅宮の分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し,1679年(延宝7年),京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座したのが始まりです。

爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え,毎月十日に限り邸内を開き,参拝を許可したそうです。当時は「金毘羅大権現」と称していましたが、1869年(明治2年)の神仏分離により,「事比羅神社」となり,さらに1889年(明治22年)には金刀比羅宮に社号を改称し,現在に至ります。

d0006690_16433899.jpg社殿前の鳥居には四神(しじん)の彫刻がなされています。四神とは四方の方角を司るとされる霊獣で,東が青龍,南が朱雀,西が白虎,北が玄武です。1821年(文政4年)に奉納されました。

左の柱です。上が青龍,下が玄武です。

d0006690_1643549.jpg右の柱です。上が朱雀,下が白虎です。

余談ですが,白虎と言えば幕末の会津藩の少年隊を思い起こしますが,会津藩では,会津戦争に際して,武家男子の17歳以下を白虎隊,18歳〜35歳を朱雀隊,36歳〜49歳を青龍隊,50歳以上を玄武隊として軍編成をしたようです。

d0006690_162325100.jpg訪れた10日は「十日祭(月次祭)」の日で,境内の神楽殿では神楽が行われていました。

d0006690_16381489.jpg写真は正面鳥居と社殿へ続く参道です。

鳥居と参道に覆い被さるビルは「虎ノ門琴平タワー(地上26階,地下3階)」で,ビルの下層部右3分の1が参道になっています。「虎ノ門琴平タワー」は虎門琴平会館ビル(代表者は金刀比羅宮と同じ),宗教法人金刀比羅宮と三井不動産によって共同開発されたオフィスビルで,2004年(平成16年)に竣工しています。

最近,京都の下鴨神社が境内の一角に高級マンションを建設し,その収入を神社の維持費に供しようと計画していることがニュースとなりましたが,金刀比羅宮にとっての安定した収入源かと思われます。






京都の三珍鳥居・その1,蚕の社の三柱鳥居
京都の三珍鳥居・その2,伴氏社の鳥居
京都の三珍鳥居・その3,厳島神社の鳥居
京都の三珍鳥居・番外その1,日乃出稲荷社の奴禰(ぬね)鳥居
京都の三珍鳥居・番外その2,野宮神社の黒木鳥居
京都の三珍鳥居・番外その3,車折神社の屋根付き鳥居
京都の三珍鳥居・番外その4,安井金比羅宮の角鳥居
京都の三珍鳥居・番外その5,大酒神社の八角鳥居
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by gakis-room | 2015-04-19 18:00 | つれづれに | Comments(0)