<   2010年 12月 ( 26 )   > この月の画像一覧

2010年 12月 31日
良い年をお迎えください
d0006690_193746.jpg寅年の今年の初めに私はこんなことを書きました。

  「白虎」は西方の守り神ですが,「苛政は虎よりも猛
  し」という言葉もあります。はたしてこの国の今年は
  どのようになるのでしょうか。

「苛政」であったかどうかはともかくも,私にとっては政治への期待が日に日に遠ざかる1年でした。「裏切られた政権交代」でした。

また,気象に弄ばれた1年でもありました。その締めくくりのきょう,奈良の最高気温は2.5度,12月の最高気温としては観測史上4位タイの寒さです。「いろいろある」は大晦日まで続きました。

今年もまもなく終わろうとしています。

この1年,ありがとうございました
どうぞ良い年をお迎えください


【今年の記録】
ブログ記事数  351
   つれづれに    229
   花の手帳     111
   韓国あれこれ    7
   簡単料理      4


※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-31 19:03 | つれづれに | Trackback | Comments(2)
2010年 12月 28日
大型のカヤツリです,シュロガヤツリ
d0006690_13481915.jpgシュロガヤツリ(棕櫚蚊帳吊)
カヤツリグサ科 カヤツリグサ属

背丈が1m程度ですが,時に1.5mくらいにまでなる大型の植物です。マダガスカル島原産で,園芸や水質浄化のため栽培されているそうすが,逸出して,野生化しているようです。

寒さに弱いとのことですが,野生化していると言うことはそれだけ温暖化しているということでしょうか。

中央の花穂の1つ1つは,2cm位です。その脇から放射状に出ているものは葉ではなく,苞です。長さは10~20cmくらいです。これをシュロに見た立てて「シュロガヤツリ」と名付けられました。

※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-28 15:30 | 花の手帳 | Trackback | Comments(0)
2010年 12月 27日
「気合い」をいれてものっそりと
d0006690_10402098.jpg目覚めてから1時間余はふとんの中にいます。別に目覚めが悪いわけではありません。ふとんの中で新聞を読む習慣のためです。

購読は2紙ですから,1時間半以上になることもあります。夏はふとんを蹴ってリラックス(?)ですが,冬はいけません。肩口が寒さにまいります。ならば,さっと起きてゆっくりと,それこそコーヒーでも飲みながらとは思わないでもありませんが…。

目覚めて,新聞を取りに行った帰りにストーブをつけるのですが,部屋が暖まるのにそれなりの時間が掛かります。それを口実に積年の習慣に負けています。と言うよりも,単に「だらしなさ」だけかもしれません。

今朝,目覚めたのは4時過ぎでした。今朝の最低気温は4時24分の−0.3度でしたから,まあ,1番の寒さの中です。布団を離れたのは6時をかなり過ぎていました。新聞の後は,「だらしなさ」のついでに肩口を温めていたというわけです。

それで,ともかくも「気合い」を入れて布団から抜けだしましたが,5月末の「マヌケな災難」以来,「気合い」を入れても,「のっそり」と抜け出します。

マンションの前の駐車場の車には,未明に降ったらしい雪が残っていました。この冬,初めての積雪です。

※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-27 14:18 | つれづれに | Trackback | Comments(4)
2010年 12月 26日
最高気温4.5度,きょうも「絶対的に寒い日」です
d0006690_1749506.jpg今朝の奈良の最低気温は0.5度で「冬日」にこそはなりませんでしたが,日中は時折,雪,みぞれが降り,気温は上がりませんでした。きょうの最高気温は昨日に予想された7度によりもはるかに低い4.5度でした。3回目の「絶対的に寒い日」です。

奈良の観測史上「最高気温が最も低かった日」は1976年12月27日の1.0度,10位は同じ1976年の12月28日の3.4度です。ですから,きょうの最高気温4.5度は「いろいろある」にはなりません。

私が日々の気温を記録するようになったのはブログを始めた翌年の2006年1月からです。以下は2006年以降の12月の寒かった日のベスト5です。

  1 4.3度  2010年12月25日
  2 4.5度  2010年12月26日

  3 5.2度  2006年12月29日
  4 6.4度  2008年12月6日
    6.4度  2010年12月16日

この5年間での5位の中に今年は3日も入っています。奈良の「週間天気予報」では,28日は12度の予想ですが,この日以外は平年以下の予想です。大晦日と元旦の最低気温は−1度を予想しています。

まさかこの夏の「異常気象」のリバウンドではないでしょうねえ。今夜は体の内外から暖かくするつもりです。

※写真は「近くの公園」のカンツバキ,クリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-26 18:53 | つれづれに | Trackback | Comments(0)
2010年 12月 25日
雪が降りました
d0006690_1626316.jpg冬ですねえ。終日,断続的に雪も散らつきました。積雪はありませんでしたが,きょうの最高気温は4.3度,この冬1番の寒さです。

これまでも何度も書きましたが,奈良の平年の最高気温の下限は1月30,31日の8度です。最高気温がそれ以下の日を私は「絶対的に寒い日」と勝手に名付けていますが,,16日が6.4度でしたから,この冬になって2度目の「絶対的に寒い日」でした。

ですから,昨日の学習は何も役立ちませんでした。買い物に出た午後2時の気象です。
  気温  3.2度
  湿度  46%
  風速  3m/s

この体感温度は「−6.3度」です。自転車ですから,厚手の手袋はもちろんのこと,この冬初めてマフラーもしました。

私のこれまでの冬の「季節感覚」は「ハンドクリームを使い始めた」でしたが,不思議なことに今年はまだハンドクリームを使っていません。「老いの抵抗」と言うほどのセンスは私には無縁です。

明日は7度の予想です。

※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-25 19:00 | つれづれに | Trackback | Comments(2)
2010年 12月 24日
きっぱりと冬が来た,黄砂と共に
d0006690_18424451.jpg16日には最高気温が6.4度。翌17日の最低気温が−1.5度という寒い日もありましたが,それでも比較的暖かな12月です。しかし,それも今朝の午前中で終わりのようです。

今朝の最低気温こそ5.6度と平年よりも4.7度ほど暖かな朝でしたが,日中の最高気温は10.5度(平年差+0.2度)止まりでした。明日の最低気温は0度,最高気温は4度の予想です。

きょう発表の「近畿地方 1か月予報」では平年より低い確率は以下の通りです。
  12月25日−12月31日  80%
  1月1日−1月7日   60%
  1月8日−1月21日   40%

いよいよ冬本番です。それはそれとしても,冬本番は黄砂まで連れてきました。しかもあろうことに「黄砂観測地点」(全国61カ所)は奈良と津と熊本の3カ所だけでした。

今年は黄砂が多いような気がします。奈良の黄砂観測日数の記録は見あたりませんでしたが,全国61カ所の観測地点の1967年から44年間の統計としては,11月現在,観測日数34日で歴代8番目の多さです。

まあ,それでも,朝から3〜4mの風が吹いていましたから,黄砂も吹き飛ばされたのでしょうか,午後からは遠くまでがよく見えました。

その風の中,夕刻に買い物に出かけ,先ほど帰って来ました。午後6時の気象です。
  気温  5.1度
  湿度  41%
  風速  3m/s

この体感温度は「−2.6度」です。「買い物は昼前後に」と言うのがきょうの学習ですが,この「学習」,明日になればこれも吹き飛んでいそうです。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-24 18:43 | つれづれに | Trackback | Comments(2)
2010年 12月 23日
李舜臣銅像をめぐる論争,ソウル・番外
d0006690_146395.jpg光化門広場は李舜臣銅像から光化門までですが,李舜臣の銅像は撤去されていました。11月14日から補修,修理されていたようです。そして,きょう23日に再び元の位置に戻されるようです。

写真は昨年の夏のものです。銅像の後ろに,復元工事のために覆いに隠された光化門が見えます。

おもしろいと思ったのは,「朝鮮日報」(Web日本語版)によると,李舜臣の銅像をめぐって5つの論争があるようです。その論点とは以下の5点です。

①銅像が手にしている刀が日本刀
②右利きの李舜臣将軍が左手でなく右手に刀を持ち,降
 伏の意思表示をしている
③甲冑が中国式
④顔が標準画像に基づくものではなく彫刻家のもの
⑤銅像の前にある太鼓は立ててあるべきなのに,実際は
 横に倒されている

私の感想としては,①については直刀ですから,日本刀のようには見えません。②については,「降伏の意思表示」かどうかは別にして,右利きであれば,通常は刀は左手に持つのが自然のように思われます。③〜④については私には「?」です。

光化門広場の李舜臣銅像は1968年の制作です。韓国南部の鎮海市(かつての日本の軍港であり,現在は韓国海軍の中心地のひとつ。2010年に馬山市とともに昌原市に編入された)にある李舜臣の銅像は,1952年の完成で,竹国友康の「ある日韓歴史の旅 鎮海の桜」(朝日選書622)によれば,韓国最初のものだそうです。

同書に拠れば「李舜臣の顔立ちや体型については伝えられていることがない」ので,彫刻家の尹孝重が子孫の骨相などをもとに模型をつくり,美術界や史学界の権威からの批評をもとに何度も手直しされて完成したとのことです。

竹国友康はソウルや釜山の李舜臣像は「やや様式的であるのに比べ…鎮海の銅像は李将軍の顔の表情や甲冑の衣紋が細かく写実的に造形されていて,その人の存在感を髣髴とさせるできばえ」と述べていますが,1度見てみたいと思っています。

なお,写真でみると鎮海の銅像は刀を体の前で両手で刀をもって地面に立てています。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-23 16:45 | 韓国あれこれ | Trackback | Comments(0)
2010年 12月 22日
光化門広場,ソウル・その3
d0006690_1333010.jpg「光化門広場」です。光化門から南へ李舜臣銅像までの世宗路は中央分離帯の左右に片道8車線の広い道路でしたが,その道路を3車線ずつ狭くして,昨年の夏に作られました。幅34m,長さ57mです。

世宗大王の銅像です。基壇の高さは4.2m,銅像本体の高さは6.2mです。世宗が左手に持っているのは「訓民正音解例本」とのことです。こちらは昨年の10月9日,「ハングルの日」に除幕式が行われました。

左手前にあるの置物は世宗時代に蔣英実(チャン・ヨンシル)が考案した日時計の模型です。そのほかにも天文観測機,降水量計などあります。

d0006690_13325055.jpg銅像の後ろには6本の円柱があり,世宗の業績がレリーフで施されています。これは和冦鎮圧のために対馬遠征時を表しています。

d0006690_13323626.jpg「歴史水路」です。水路と言っても深さは3cmくらいです。わずかな傾斜があるのでしょうか,水は手前に流れています。朝鮮王朝時代の1年毎が記されています。

通路の左側は現在は芝になっていますが,花の季節にはフラワーカーテンになります。夏に見た時にはずいぶんの人出でしたが,樹木がなく,日陰がないのが気になりました。

d0006690_13322513.jpg「歴史水路」の1592年には
  1592(宣祖26年)
  壬辰倭乱 勃発
  景福宮・昌徳宮・昌慶宮焼失
  閑山島大捷
とありました。


※「壬辰倭乱」…文禄の役の韓国での呼称
※「閑山島大捷」…1592年7月,朝鮮水軍の李舜臣は閑山島海戦で秀吉の水軍を撃破。以降,朝鮮水軍は南海の制海権を失うことはなかった。

※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-22 19:00 | 韓国あれこれ | Trackback | Comments(2)
2010年 12月 21日
完全復元された光化門と扁額,ソウル・その2
d0006690_1751279.jpg今年の8月,景福宮の光化門が完全に復元されました。以前のものは1968年に再建されたものでしたが,
 ①本来の位置と角度少しずれていること
 ②石垣以外の部分が木造ではなくコンクリート製であ
  ること
 ③扁額の「光化門」の文字が漢字ではなくハングル
  (朴正熙,パク・チョンヒ元大統領の揮毫による)
  であること
などから,本来の姿に戻すための復元工事が2007年から始められていました。復元は門だけでなく,門に続く塀も含まれました。

d0006690_17511386.jpg光化門・景福宮が建設されたのは,朝鮮王朝成立の2年後の1394年です。その後,1592年の秀吉の朝鮮出兵時に民衆によって焼失します。これは日本人がその破壊に手を汚さなかった歴史的建造物の数少ない一例です。

その後,1865年に高宗の父親であった執権者,興宣大院君によって再建されました。しかし,日本にの植民地時代,正殿である勤政殿前に朝鮮総督府庁舎を建設するために光化門は撤去されかけましたが,柳宗悦が発表した「失はれんとする一朝鮮建築の為に」(「改造」1922年9月号)等の運動もあり,破壊を免れて王宮の東に移転されます。

写真は高さ22m(ドームの部分の高さは54.5m)の朝鮮総督府庁舎を勤政殿から見たものです(ウィキペディアから)。王宮は朝鮮総督府庁舎によって完全に隠されることになりました。(鳥瞰図はここにあります

なお,植民地時代には,景福宮内にあった500棟の建物のうち,470棟近くが破壊されましたが,現在,125棟が復元されています。

光化門は戦後,元の位置に戻されましたが,朝鮮戦争時に焼失してしまいます。そして,先に述べたように朴正熙時代に再建されました。

d0006690_1751230.jpg復元された扁額です。8月15日の一般公開から3か月後に「光」の部分と「化」(写真でははっきりとは見えない)の部分にひび割れが確認されました。

素材の松が充分に乾燥されていなかったからとも言われていますが,それだけでなく「時間と予算」によるとの指摘もあります。

※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-21 19:00 | 韓国あれこれ | Trackback | Comments(4)
2010年 12月 20日
復元された重明殿,ソウル・その1
d0006690_1828997.jpg重明殿は元々は1897年に徳寿宮内に建てられた皇室図書館でした。1904年の徳寿宮の火災によって,皇帝高宗はここを執務を行うようになります。

1905年11月17日,この建物で憲兵を同行させた伊藤博文は大韓帝国の諸大臣に「保護条約」への同意を迫ります。庭には日本兵が溢れていたと言います。反対ないしは逡巡する大臣たちに「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ」とも言ったといいます。

こうして「第2次日韓協約」(乙巳条約)は締結され,大韓帝国の外交権は日本に剥奪され,また外交,内政については統監府(初代統監は伊藤博文)委ねられることになり,大韓帝国は事実上,その独立を失いました。

d0006690_18275928.jpg日本の植民地時代に徳寿宮は3分の1ほどに縮小され,重明殿は徳寿宮から切り離されました。1915年からは「外国人社交クラブ」として利用されました。その後,幾多の変遷を経て,1976年からは民間所有となり,会社事務所となってました。

私が初めてここを訪れたときはまだ事務所でした。その後,2006年には文化庁が引き取り,2007年には「国家指定文化財史蹟124号」として徳寿宮に編入されると共に,復元工事がなされます。

2010年8月復元が完了し,一般公開されるようになりました。一般公開といっても,1日6回,各25人の限定です。内,20人は要予約で,フリーの入場は5人です。

d0006690_18274926.jpg2階正面の会議場です。ここで伊藤博文は「第2次日韓協約」を強要したのでしょうか。

1階,2階とも「第2次日韓協約」に関連する資料が展示されていましたが,説明文は韓国語と英語だけであったのが,ちょっとした不満です。もっともパンフレットには日本語説明文がありましたから,さほどの不自由はありませんでした。

※写真はクリックすると拡大します。
[PR]

by gakis-room | 2010-12-20 19:20 | 韓国あれこれ | Trackback | Comments(2)