カテゴリ:韓国を語る前に( 15 )

2009年 06月 06日
国家と民族の呼称について考える 4−4,韓国を語る前に②
4 手紙・私の躓き
 今年は,例年になく寒いソウルとのことですが,お変わりなくご活躍のことと思います。新聞によれば,漢江にも全面に氷が張ったとか,一度見たく思います。

 私と言えば,年末からの一つの作業がようやく終わったところです。あなたは,民族の呼称は「ハングッサラムヨ」つまり韓国人ですね,と私の質問に答えながら,なぜ,そのような分かり切った質問をするのか,と怪訝そうな顔をしていましたね。話題はすぐに他のことに移ってしまいましたが,私の質問,「民族の全体を指示する言葉はなんというのでしょうか」は長い間の私のつまづきでした。

 私がいささかでも韓国に関心を持つようになったのは,高校時代の親友が韓国人であったことを除けば,大学2年の時の日韓基本条約の締結時でした。同じ学部の学生であった柳君の強い誘いもありましたが,日本が結ぼうとしている条約の非合理性・不道徳性に憤りを感じていました。そのころから,私は,西ドイツと東ドイツの全体を指示して「ドイツ」というように,南北の国家を南朝鮮・北朝鮮と呼ぶようになりました。それでいいと思っていました。

 15年くらいまえでしょうか。現在の天理語学院がまだ天理大学別科であった頃のことです。不相応にも,別科の日本語科の外国人留学生に,明治以降の日本について話す機会がありました。当然,「日韓併合」と植民地支配のことにも触れました。私の話が終わって,質疑になりました。その時,一人の韓国人留学生から,話の趣旨はよくわかったが,「南朝鮮」という用語の使い方には疑問がある,なぜ,韓国ではないのか,「南朝鮮」という言い方は残念であり,憤りすら感じる,との発言がありました。その時,私はどのように答えたのか,今ではすっかり忘れてしまっています。おそらくは,しどろもどろになりながら,「朝鮮=南朝鮮・北朝鮮」を答えたのだと思います。しかし,韓国人には南朝鮮ではダメなのだ,韓国人には韓国でなければならないのだ,という印象を強く受けたことを覚えています。ある意味ではそれは衝撃でもありました。

 以来,私は韓国と朝鮮を使い分けるようになりました。と同時に,私は西ドイツと東ドイツの全体を指示する「ドイツ」に当たる言葉を失いました。それまでは南朝鮮と北朝鮮,全体は朝鮮で納得していましたが,こうした私の納得は独りよがりでないとしても,民族のアイデンティテイがすっかり抜け落ちていることを知らされることになりました。

 そしてその後,民族の全体を指示する言葉を見つけられないまま,韓国人と話すときは「韓国・北韓」,朝鮮人と話すときは「朝鮮南部・朝鮮」。そして,日本人と話すときはこの国の習慣に従って,「韓国・北朝鮮」というように使い分けながら,そのたびに,自分のおぞましさを感じざるを得ませんでした。正直に申しますが,あなたと話しをする時,「北韓」という自分に自己嫌悪すら感じます。

 あなたにとって,国家と民族の呼称は韓国と韓国人以外にはあり得ないのですが,私にとっては,韓国と韓国人は朝鮮半島の半分しか指示していません。この朝鮮半島もあなたには韓半島ですよね。ひょっとしたら私のわだかまりは,つまらない躓きでしかないかもしれません。

 しかし,私にはやはりうっちゃっておけないわだかまりです。それは,私の中では日本の植民地支配につながっているからです。あなたの支持する金大中大統領が言うように,あなたも「過去は過去としても,きょうから明日へ韓国と日本がどのように協力していくかが大切だ」と考えています。その考え方には大賛成ですが,あなたが韓国の開国期以来の国の力のなさを憤るように,私は私で倭奴の子孫です。歴史を引きずりながらも個人が国家を代表しうるとは思いませんから,植民地支配,あるいは江華島事件以来の日本と韓国との関係についてこれからも個人として謝罪することはありませんが,しかし,過去は過去として知っておくことが,きょうから明日への善隣の前提であることは言うまでもありません。

 私のわだかまりを理解していただけるとは思いませんが,「ハングッサラムヨ」ですまされない,私の躓きを知っていただければと願って,まとめてみました。
 もうすぐ立春です。あのケナリ(れんぎょう)の黄色が待ち遠しい毎日です。
                                                 拝。

【補注】
 初めて韓国旅行をしたのは1995年8月のことでした。戦後50年,韓国では「光復50年」を期して行われた,日本の植民地支配の象徴としての朝鮮総督府建物の解体式を見たいと思いました。朝鮮半島の歴史と文化に関心を持つようになって間もない頃です。

 「韓国を語る前に①」をまとめたのは1999年の冬,「②」はその2年後でした。今,読み返してみるとどちらも不十分なところがたくさん目に付きますが,私の関心のありようは今もあまり変わっておりません。

ただ,その頃に考えていた「韓国との対話」はいまだにまとまる気配もありません。ブログに「韓国あれこれ」と断片的に感想を書き連ねているばかりです。なお,「韓国あれこれ」はブログの2回目の記事からでした。以来,記事は165回を数えています。
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by gakis-room | 2009-06-06 08:12 | 韓国を語る前に | Comments(15)
2009年 06月 05日
国家と民族の呼称について考える 4−3,韓国を語る前に②
3 民族としての呼称
 民族の呼称としては,現在,「韓国・朝鮮人」という言い方が一般的によく使われる。これは,桃山学院大学の徐龍達教授の提唱によるものだという。確かにこの呼称には,国家の呼称の問題をクリアーしているようにみえる。在日のその国籍が韓国と朝鮮であれば,その人々はそれぞれに韓国人であり,朝鮮人である。そして,韓国人と朝鮮人の総称として「韓国・朝鮮人」という呼称は,いわゆるニューカマーの問題を除けば,正当に全体を指しているように思われる。

 なぜなら,ニューカマーの問題は,ニューカマーはその来歴およびアイデンティティからいって在日「韓国・朝鮮人問題」では絶対になく,確実に在日韓国人問題だからである。「韓国・朝鮮人」という呼称は,特に在日の問題を考える時には妥当であるかもしれない。

 しかし「韓国・朝鮮人」を総体としての呼称とするには問題がないわけではない。分断された二つの国家のどちらにも肩入れすることのない中立であることの証左として,民族の呼称として「韓国・朝鮮人」としても,それは,ほとんど日本人の内向きに発せられた言葉でしかないように思われるからである。なぜなら,たとえば,,韓国人にすれば朝鮮半島は存在せず,存在しているのは絶対に「韓半島」であって,同様にに言語は「韓国語」であり,チマチョゴリは「韓服」であり,料理は「韓国料理」なのである。第一に,民族からして韓民族なのである。

 このように「韓国」と「朝鮮」は言葉を越えて民族と国家存続のアイデンティティなのである。だからこそ,NHKの語学講座の名称は紛糾した後に,「韓国語講座」でもなく,「朝鮮語講座」でもない「ハングル講座」として開設されなければならなかった。「韓国・朝鮮人」と呼称しても,現実に,韓国人と対話をする時,これまで私がしてきたように「韓半島」・「韓国料理」と語り,朝鮮人と対話をする時は「朝鮮半島」・「朝鮮料理」と煩わしい区別をつけなければならないのだろうか。

 民族の全体を指示することばについての提言を私はほとんど知らない。私の知る限りでは,徐龍達教授が,「韓朝鮮人」を唱提している。理由として分断を現実のものとして認めた上で,南北のこれまでの自称を前提に,「韓」は朝鮮語では「ハン」と発音し,同音の「ハン」には「一つの」ないしは「偉大な」の意味があるからとしている。確かに一つの提言ではあるが,いかにも足して2で割ったという感じを禁じ得ないし,漢字としては収まりがよくないように思われる。同調する人も少ないようである。

 「韓朝鮮人」と比べると,「コリアン」については多く見ることができる。南北の全体を指示しようということなのか,あるいは「朝鮮人」と直接言いにくいからなのであろうか。英語であることが「韓国」・「朝鮮」という誠治的言語の政治性を薄めているからかもしれない。近年,論文・雑誌だけでなく,日常の会話の中でもつかわれているようである。確かに便利である。しかし,いかにカタカナ英語が氾濫している時勢とは言え,漢字文化圏の日本語として適当であるかどうかはさておいても,植民地支配の後遺症の克服の処方とは言い難い。それ以上に,何よりも当事者が「コリアン」を民族の自称として納得するかどうか難しそうである。

 「韓国」・「朝鮮」が政治的言語として体制選択というイデオロギーを表出し続ける以上,問題の解決は,南北の国家統一後の当事者による自称の決定を待たなければならないのだろうか。しかし,戦前の植民地時代の「鮮人」をそのままに戦後にひきずって「南鮮・北鮮」→「韓国・北鮮」→「韓国・北朝鮮」と呼称してきたのは他ならぬ日本人なのである。未処理の戦後処理問題の解決はすぐれて日本人の課題なのである。

【補注】
 大学に設置されている外国語講座は,朝鮮語,韓国語,コリア語,ハングルと様々な名称になっています。
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by gakis-room | 2009-06-05 07:01 | 韓国を語る前に | Comments(5)
2009年 06月 04日
韓国を語る前に②   国家と民族の呼称について考える 4−2の2
2 国家としての呼称  その2
d0006690_1735637.jpg  新聞はどうであっただろうか。「韓国」は国家の成立から「韓国」として記載されてきたが,「北鮮」は長く「北鮮」のままであった。

 毎日新聞では1959年6月21日の記事を最後に紙面から「北鮮」は消え,翌7月から「北朝鮮」と記載されるようになった(ただし縮刷版の目次。紙面としては8月から)。朝日新聞でもほぼ同じ頃ではないだろうか。

 おそらくは在日朝鮮人の「北朝鮮への帰還」(帰還事業)との関わりからではないだろうか。帰還事業の第一陣の出発は1959年12月14日であり,日朝両国の赤十字社の協定調印は同年8月13日であったから,調印にいたる経過の報道として,「北鮮」を修正する必要があったのであろう。あるいは同年の朝鮮総連の各方面への要望,つまり,「北鮮」・「北朝鮮」という表現は誤りであって,「朝鮮民主主義人民共和国」の正式名称をつかうべきであり,略称としては「朝鮮」が正しいとの要望の効果もあったかもしれない。

 しかし,ソウルはその後も長く「京城」のままであった。毎日新聞では1961年5月18日から,朝日新聞はそれよりも少し早く同年1月7日からソウル発の記事はそれまでの「京城」発から「ソウル(京城)」発という表記に代わった。同時に人名などの固有名詞には漢字の後に現地音をカタカナで括弧表記するようになった。単に「ソウル」となるのはかなり後のことである。

 とまれ,政府の外交方針として南北の分断国家うち,南の韓国だけを支持することは,ことの道理・非道理を別にすれば,政治選択としてありうるであろう。しかしそのことと,新聞報道が同じであってよいという論は成り立たない。ましてや社会の木鐸を自認する新聞である。だが,新聞の紙面で見る限り,新聞社の無思想性というよりは,新聞もまた「未処理の戦後処理問題」ないしは植民地支配の後遺症を長く引きづってきたといいえるのであろう。そしていまなお,「韓国・北朝鮮」の時代は続いている。

 いずれにせよ,分断された二つの国家の全体を指示する言葉を私たちは失ったままである。いわゆる「従軍慰安婦問題」等,未処理のまま放置された「戦後処理」は少なくないが,わたしたちにとって「韓国・北朝鮮」という呼称に代わる分断された二つの国家の全体を指示する言葉を回復するまでは,未処理の戦後処理という意味で,戦前の植民地支配の後遺症を引きずるのである。それははたして,日本と朝鮮民主主義人民共和国の国交の樹立によって,「朝鮮」が正規の国籍を指示するようになる以前に可能であるのだろうか。

 また,それだけでなく,マスコミや私たちの日常会話の中では「北朝鮮」に代わって「朝鮮」と呼称されるようになるのはいつの日であろうか。「北朝鮮」に代わって「朝鮮」と呼称されるようになったとしても,それでもなお,朝鮮半島全体を指示する言葉は失われたままである。第一,「朝鮮半島」という言い方ですら,韓国人にとっては北を支持する政治的言語であり,韓国人にとっては絶対に「韓半島」でなければならないのである。私たちが朝鮮半島全体を指示する言葉を持つまでは,なおしばらくは植民地支配の後遺症を自覚しつつ,私は韓国との対話を始めようと思うのである。
※写真はクリックすると拡大します。
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by gakis-room | 2009-06-04 06:50 | 韓国を語る前に | Comments(6)
2009年 06月 03日
韓国を語る前に②   国家と民族の呼称について考える 4−2の1
2 国家としての呼称  その1
 新聞・テレビなどのマスコミでの報道では,ニュースの冒頭でのみ「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」としたうえで,それ以降では「北朝鮮」とするのが通例であるが,私には違和感が強い。「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」という表現のしかたがいつから始まったのかは私には不明であるが,違和感という以上に,むしろ,「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」と聞く度に,その言葉のいびつな政治性,つまり,韓国をもって朝鮮半島全体とみなす戦後処理の虚構,あるいは日本の植民地支配の後遺症を感じさせられる。分断国家のそれぞれが,「北韓」・「朝鮮南部」と呼ぶのはそれぞれの国家の政治性の問題である。しかし,日本は朝鮮半島全体に,南北の双方に植民地支配の責任をもつことはいうまでもないことである。

 周知のように,1910年8月,日本は大韓帝国(1898年にそれまでの国号,朝鮮を大韓帝国と改称していた)を植民地とした。「併合条約」公布にともなって,日本は大韓帝国の国号を廃止して,国号に変わる地域の名称として,「朝鮮」という用語を使用するようになった。植民地化の翌月になると,「大韓」をもつ新聞雑誌はことごとく押収され,自称としての「韓人」も消し去られ,変わって,「鮮人」あるいは「半島人」なる差別語が一般化していったという。

 伊藤博文を暗殺した安重根が,たえず「大韓国人 安重根」と自署していたのは,彼の民族としての矜持の高さの故であろう。「鮮人」なる蔑称は,抗日義兵運動・独立運動に関わる朝鮮人に対しての「不逞鮮人」とともに日常の日本語として定着していった。このことについては,戦前の社会主義者・共産主義者も例外でないだけでなく,戦後も長期にわたって引きずることになった。すなわち,南北朝鮮を南朝鮮・北朝鮮ではなく,「南鮮・北鮮」とする呼称がそれである。

 大韓民国成立後,韓国の呼称は次第に定着していくが,朝鮮民主主義人民共和国については,後述するように「北朝鮮」どころか,かなり長期にわたって「北鮮」が呼称として続くのである。また,日本人の日常会話の中では「鮮人」でなければ,「半島人」あるいは漢字の「朝鮮(人)」ではなく差別意識を帯びたカタカナの「チョーセン(ジン)」ないしは「(第)三国人」であった。

 余談になるが,第三国とは,日本の敗戦後処理にあたって,占領国(連合国)と被占領国(日本)のいずれの国でもないという意味として当初は使用された。したがって,第三国人という場合,それは,石原慎太郎東京都知事が言うように,外国人一般を指すのではない。日本帝国主義下で帝国臣民つまり日本人とされ,戦後,その法的地位が保留された在日朝鮮人・在日台湾人のことであった。そして,それは日常的には「三国人」は朝鮮人に対して「鮮人」にかわる差別的用語として使用されてきた言葉である。石原発言は,彼の歴史認識の貧困さという以上に,文学者としての言葉に対する感性の貧弱さの問題であろう。

 なお,第三国人の法的地位については,GHQは(講和条約発効までは)「朝鮮人は引き続き日本人」との見解を示していたが,日本国憲法が施行され,天皇のその法的地位が象徴となる1947年5月3日の前日,つまり,大日本帝国の天皇としての最後の日の5月2日に発せられた勅令「207号」で「この勅令の適用について,朝鮮人は当分の間これを外国人とみなす」として,一方的に帝国臣民つまり日本人から外国人として突き放し,勅令「207号」=外国人登録令の対象としたのであった。

 外国人登録令(1952年の講和条約発効後は「外国人登録法」)の施行に当たって,外国人登録証の「国籍表示」は記号としての「朝鮮」と標記されたが,1948年に大韓民国が成立した後の第1回切り替え(1950年)以降,「韓国」の標記もなされるようになったが,この「韓国」も「朝鮮」と同様に,「国籍」ではなく単なる「用語(記号)」であるとするのが日本政府の見解であった。つまり,日本政府にとっては,在日朝鮮人が分断国家の南北のどちらを選択したにせよ,「国籍を持たない」人々であった。

 新聞はどうであっただろうか。


【補注】
 石原都知事の「三国人」発言は,2000年4月9日,陸上自衛隊練馬駐屯地の創隊記念式典での演説の中です。以下は彼の発言です。

「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で,すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すらですね想定される,そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ,そういう時に皆さんに出動願って,災害の救急だけではなしに,やはり治安の維持も1つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを期待しております。」

 彼はオリンピック誘致にあたって「最も安全な東京」とも言っていますが,「凶悪犯罪が繰り返される」東京はいつから「最も安全な東京」になったのかはともかくも,ここでも私は言葉に対する感性の貧弱さを感じざるを得ません
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by gakis-room | 2009-06-03 07:00 | 韓国を語る前に | Comments(2)
2009年 06月 02日
韓国を語る前に②   国家と民族の呼称について考える 4−1
1 呼称の問題-なぜ韓国なのか
 朝鮮の歴史と文化について関心を持つようになってしばらくになるが,なぜ,標題は「韓国を語る前に」なのか。私が関心をもってきたのは,日本との関わりという限定がないわけではないが,朝鮮半島に展開されてきた五千年のかの国の歴史と文化であって,1948年に建国された大韓民国の歴史と文化ではない。

 そうであるのに,なぜ,「韓国を語る前に」なのか。苦しい説明をすれば,「●●」42号の私の小論はその内容から,見聞したものが韓国に限定されているから「朝鮮を語る前に」ではしっくりとしない,というだけのことである。そして,これからも私の見聞は韓国に限定されるであろうから,「韓国との対話」であり,その前段としては,やはり,「韓国を語る前に」なのである。

 いうまでもなく,日本政府は朝鮮半島の正統的国家としては「韓国」だけを唯一のものとしており,「朝鮮民主主義人民共和国」については依然として国家として承認していない。したがって,外国人登録証記載の「朝鮮」については,国籍の表示ではなく,単なる用語(記号)でしかないとしている。日本政府の国家としてのこの姿勢は,かつて,中華民国を唯一の国家・政府として,中華人民共和国を否定してきた虚構と同じである。

 1965年の「日韓基本条約」締結時ならともかくも,南北の国家が,それぞれに独立国家として,国連に加盟している現在,その加盟を承認した日本政府が,外国人登録証の「朝鮮」の記載について,国籍を意味するものではないとするのは,詭弁でしかない。このことは,単なる論理の問題であって,日本と朝鮮民主主義人民共和国とが国交を結ぶ,ないしは正常化するという政治的課題とは別の問題である。

 南北の統一以前に,いずれ,外国人登録証の「朝鮮」は記号から国籍になるに違いないが,しかし,南北の国家を国家として認めた上でも,それぞれの国家の呼称の問題は依然として残る。一般には,「韓国」と「北朝鮮」と呼ぶが,これは日本語としては苦しい。大韓民国の略称として韓国とするのであれば。朝鮮民主主義人民共和国の略称は「北朝鮮」ではなく,朝鮮であるべきである。かつての分断国家の「東西ドイツ」と「南北ベトナム」を東ドイツ・西ドイツ,南ベトナム・北ベトナムと呼んできたならいに従えば,「北朝鮮」に対しては「南朝鮮」でなければならない。しかしながら,日常の日本語の中に,「北朝鮮」はあっても,「南朝鮮」はない。

 1948年,大韓民国,ついで朝鮮民主主義人民共和国があいついで成立すると,「朝鮮」はすぐれて政治性を帯びた言葉になった。両国家の分断は,朝鮮戦争によって固定し,対立は冷戦構造の中で日ごとに熾烈になった。その結果,「朝鮮」は北を「韓国」は南をそれぞれに政治的に支持することを意味する言語になった。こうして私たちは,分断国家の全体を指示する言葉を失った。西ドイツと東ドイツの全体を指示する「ドイツ」にあたる言葉を失ったのである。それだけではなく,日韓基本条約が締結された1965年以降は,「韓国」は外国人登録証の正規の国籍表現となり,一方で,「朝鮮」は単なる記号であり。国家名の略称は「北朝鮮」といういびつな呼称が完全に定着するのである。

【補注】
 これは,3月2日〜22日に9回に分けてアップした「韓国を語る前に①」の続編です。文中の「『●●』42号の私の小論」とは「韓国を語る前に①」のことです。
4回に分けて記事とします。
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by gakis-room | 2009-06-02 07:04 | 韓国を語る前に | Comments(21)
2009年 03月 22日
−道徳的債務者との別れ− 9−9 ,韓国を語る前に①
9.手紙・「水原城」のこと  

———ニム,
 お変わりなく,お元気のことと思います。ソウルでは大変お殴話になりました。心からお礼申し上げます。日本に帰ってから,日が浅いせいでしょうか,一つひとつのことが,順序もなく,しかし,鮮明に思い出されます。これも,旅の余韻というのでしょうね。中でも,日本に帰る前日に行った水原城のことが思い出されます。

 水原では,念願であった水原城の城壁をゆっくりと歩くことができました。1時間位歩いたでしょうか。1時問といっても,それでも城壁の四分の一程です。域壁を歩きながら,これを建設した第22代朝鮮国王正祖のことやら,築城にあたって拳重機を考案した丁若鏞のことについてあれこれと考えました。私が,正祖に興味を抱くようになったのは,映画「永遠なる王国」を見てからのことでした。映画の中では,正祖は保守的な官僚,といっても官僚たちは言うまでもなく科挙に合格した一流の儒学者たちですから,彼らの大義名分の論理に抗しながら,王朝の近代化を図ろうとする姿が印象的でした。

 私が水原に行く前日,日本の植民地時代のことについてあなたといくつかの話をしました。その折,あなたは「戦に負けたのならともかくも,戦わずしてむざむざと日本の植民地になった我が国のだらしなさ」を怒っていました。その時,私はうまく言えませんでしたが,映画の記憶もあって「正祖の近代化路線が、彼の死によって挫折しなければ違ったのではないでしょうか」と言ったら,「その後の3代続いた勢道政治だけじゃあないんだ」とあなたはいたく不機嫌でした。それから,しばらくあなたは何も言わず、黙って前を見つめていました。

 日本に帰って,あなたやら水原を思い出すたびに,あの時のあなたの姿を思い出してしまいます。あなたはあの時、沈黙の中で何を考えていたのでしょうか。

 水原城へは,あなたから教えられたようにソウル駅で地下鉄から国鉄に乗り換えて,簡単に行くことができました。そのうえ,水原は終点ですから車内での緊張もほとんどありませんでした。車内の物売りに初めて出会ったことも印象的でした。物売りは,財布を売っていましたが,三人ほどが買っていました。

 緊張といえば,水原駅前でタクシーに乗り,「水原城へお願いします」といって,タクシーの運転手に突然笑われた時のことでした。運転手の身振り手振りからすると,「ここの全部が水原城だよ,そのどこへ行けというのかね」という感じに見えました。迂闊と言えば迂闊でした。

 日本と違って,韓国では山城を除けば、城とは都市全体が城である都城であることをすっかり忘れていました。「長安門へお願いします。と言ったら黙って大きくうなずいて,早口で何か私に語りかけてくれたのですが,あなたもご存じのように、私のしゃべれる唯一のことば,つまり,「日本人です、韓国語はできません」というしかありませんでした。

 水原城は「華城」というそうです。日本のガイドブック「地球の歩き方」には「父荘献世子の死に心を痛め,その陵を揚州から水原郊外の華山に移し,隆陵とした。水原華城は陵墓を守り,自ら参拝するために築城された」と書かれていますが,参拝のための城にしては,余りに大きすぎます。

 南門(八達門)は雄大で,ソウルの南大門より大きく見えました。東門(蒼竜門)近くの案内所でいただいたパンフレット(日本語)によれば,「火器に対する攻撃と防御に対処することができる施設を備える」とあるように,東西南北の四門はすべて前面には半月型の甕城をもち,いくつかの砲楼や五個の火頭をもった狼煙の設備があることを考えれば,これは宿泊のための行宮ではなく,立派は都城です。

 私の勝手な推測ですが,正祖は水原への遷都を考えたように思われてなりません。朴趾源・丁若鏞や朴斉家など北学あるいは実学派を積極的に登用しただけでなく,朝鮮王朝の開国以来その能力にもかかわらず,その出自故に出世の道を閉ざされ,差別されてきた庶子をも登用した正祖のことです。彼は王宮をしばしば出て人々の声に耳を傾けました。また,彼は部分的とはいえ,奴碑の解放も行っています。

 正祖にとって水原城建設は党争の中で,王の次男として生まれ,皇太子に処せられながら餓死させられた父のへの無念の思いだけではないようです。ヨーロッパの築城技術と朝鮮建築美を融合させた水原城の築城は,ソウルから遠く離れた水原に王城を移転することによって,あくなき党争を拒絶し,朝鮮王朝の近代化の拠点を建設することだったのではないでしょうか。映画「永遠なる王国」の「永遠」とは自らの死によって果たし得なかった近代化された王朝のことであるようにおもわれます。

 水原城が完成したのは,1796年でした。そして,正祖の死去はそれから4年後の1800年,正祖48歳の死は余りにも若すぎたように思われます。22代正祖とかれの祖父21代英祖は,朝鮮王朝史の中では,中興の王とされていますが,先に述べたパンフレットでは正祖「大王」とされていたことが印象的でした。それにしても,この都城の防御の堅さは何に対しての防御だったのでしょうか。正祖の治世は,事大関係を結んでいた清国では隆盛を極めた乾隆帝の治世と重なっており,日本とは通信使の往来があった時です。この要塞都市は私にとって新しい疑問をもたらしました。

 ソウルに滞在中のお礼を申し上げるつもりでしたのに,長々と意味不明なことを綴ってしまいました。お許しください。重ねてあなたのご親切にお礼を申し上げます。できることなら,また、ソウルに参りたいと願っています。その時には,正祖についてあれこれと質問をいたしますから,今度は不機嫌になることなく、どうかお教えください。
 新年にはたくさんの福がありますように。                       
                                                   拝

【補注】
 「地球の歩き方 ‘06〜’07」では「水原華城は陵墓を守り,自ら参拝するために築城された」の記述は「父の眠る場所へ都を移したいと遷都計画がもちあがった…しかし遷都の直前に正祖が病死してしまい城郭だけを残して遷都計画は中止に。水原は幻の首都となった」となっている。(「韓国を語る前に①」了)
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by gakis-room | 2009-03-22 14:01 | 韓国を語る前に | Comments(8)
2009年 03月 21日
−道徳的債務者との別れ− 9−8 ,韓国を語る前に①
8.在日韓国人の現状  
 戦後50年,この国の韓国朝鮮人に対する民族差別は一貫して厳しいものであった。にもかかわらず,「在日韓国人青年の生活と意識」(金明秀・福岡安則,東京大学出版会)によれば,日本人と韓国人の教育達成度は全世代においてほとんど差異がない。また,「在日同胞の生活と暮らし」(朴一,民族大学運営委員会)によれば,1983年の調査で,資産1億円以上の韓国朝鮮人は1万2千人弱だという。在日韓国朝鮮人65万人が一家族5人の構成と仮定すると,在日韓国朝鮮人の11人にひとりは資産1億円以上の家庭にいることになる。

 また,「在日韓国人の杜会成層と杜会意識全国調査報告書」(在日韓国青年商工人連合会編)によればその職業威信(人々がそれぞれの職業に与えている「格付け」)も全世代を通じてほとんど日本人のそれと差異がない。1955年当時,在日の4人に3人が失莱中で,5人に1人が生活保護を受けていた事実と現状との違いは,何によるものだろうか。

 日本人の韓国朝鮮人に対する民族差別と差別意識にもかかわらず,彼らの生きることへのたくましさ,向上への意欲の強さはわたしたちの想像以上であるだけでなく,平均的日本人のそれをはるかに越えていたのである。
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by gakis-room | 2009-03-21 10:00 | 韓国を語る前に | Comments(2)
2009年 03月 20日
−道徳的債務者との別れ− 9−7 ,韓国を語る前に①
7.「帰化」制度の問題点  
(1)帰化と市民権の獲得
 「帰化」とは,一般に「他国の国籍を得ること」と理解きれている。事実,国語辞典の多くにはそのように記述されている。しかし,本来の意味は「君主(日本の場合は天皇)の徳に感化されて付き従うこと」である。古代の朝鮮半島からの移住者については,当時の事実関係から考えて,天皇の徳を慕って移住してきたとは言い難く,近年では「渡来人」という言い方が定着している。

 しかし,近代以降,日本国籍の取得については依然として「帰化」といい,単なる国籍取得を越えて,「日本人化」を当然の理とし,日本的姓名が強要されてきた。英語での「帰化」に相当する言葉は Naturarization であるが,これは「その国に生まれた人と同じ権利=市民権を取得する」という意味である。当然のこととして,「帰化」する以前の固有の民族的文化の放棄は強要きれていない。むしろ出自に関わる文化については人為の所産でしかない国家が関与すべきことではないのである。

 したがって,国籍の取得は,その地に生まれ育った人問がもつ権利(=市民権)と同じ権利を取得するというだけのことであるから,固有の民族性と文化を捨てて,他民族の民族性とその文化に同化しなけれぱならない理由は何もないし,ましてや日本的姓名の強要は克服されるべき偏狭な国粋主義でしかないのである。

(2)帰化制度の問題点
 国籍法第4条による帰化の要件は以下の6点である。
  1 引き続き5年以上日本に住んでいること
  2 20歳以上で本国法によって能力を有すること
  3 素行が善良であること
  4 独立の生計を営むに足りる資産または技能があること
  5 国籍を有せず,又は日本の国籍を取得することによってその国籍を失うべきこと
  6 (暴力で日本国政府を破壊することを企てたことがないこと)

 帰化申請に必要な書類は,「国際結婚ハンドブック」(明石書店)によれぱ以下の14種類である。
  1 帰化許可申請書
  2 帰化の動機書
  3 履歴書
  4 宣誓書
  5 親族の概要を記載した書面
  6 生計の概要を記載した書面
  7 事業の概要を記載した書面
  8 自宅・勤務先付近の略図
  9 在勤証明書・在学証明書・成績証明書・就業証明書
  10 国籍証明書
  11 旅券
  12 出生証明書(本国の戸籍謄本を日本語訳者名を記した日本語訳したもの)
  13 親族関係証明書(本国の戸籍謄本を日本語訳者名を記した日本語訳したもの)
  14 外国人登録済証明書

 田駿のいう「民族的侮辱」のひとつは,第2の創氏改名を強制する窓口の指導とプライパシーの全面開示のことである。上記「帰化許可申講書」には「帰化後の氏名」欄があり,現在でも「帰化」後の姓名について日本的姓名を名乗るよう,強制にも近い指導がなされているという。

 日本人の場合の出生届けの時の姓名の制限が「人名漢字表」に記載があるかどうかだけであって,その読み方の制限すらないことを考えると,「帰化」にあたって,なぜ日本的姓名への「創始改名」か強要されるのか,理解しにくいことである。他国にはそのような例はあるまい。国籍の収得が「その地に生まれ育った人問と同じ権利」以下であってはならないのである。ついでに言えば,国籍取得にあたって,それ以前の国籍を放棄することを前提としているのは欧米先進国にはない。

 また,「生計の概要を記載した書面」については,家計簿の如き支出の明細,所有する不動産・預貯金の全容・主な家具等まで明らかにしなけれぱならない。平均的日本人を前提としてもここまでプライバシーを全面開示する必要があるのか疑問である。日本での居住年限の制限はやむを得ないとしても,独立して生計を営むことができているかどうかは「就業証明」あるいは「所得証明」以上に必要であろうか。

 かつて植民地支配を通じて,日本人であることを強制され,言葉を奪われ,創始改名によって名前を奪われた在日韓国・朝鮮人にとって,現在の「帰化」(断じて「国籍取得」ではない)制度は第2の創始改名にも見えるのではないだろうか。在アメリカ韓国人(約百万人余)にはアメリカ国籍を取得すること(市民権の獲得)にためらいがあるのだろうか。日本的姓名の強要は,日本の植民地支配(日帝36年)を戦後一貫してあいまいにしてきたこの国の歴史認識の貧困さと「帰化」と「市民権の獲得」の違いからくるものなのである。

 戦後,半世紀以上にわたって他国(日本)に定住してきた外国人(韓国朝鮮人)が定住いている国(日本)の国籍を取得していないということは世界的に見てもほとんど例がない奇異な事ではないだろうか。

【補注】
 今月の24日に在日韓国人の法的地位及び待遇に関する日韓局長級協議が東京で開催され,在日韓国人の日本の外国人登録法および出入国管理法に関する法的地位と,教育問題など社会生活上の処遇などについて包括的に話し合われるという。

 この協議は1991年以来,毎年開催されている。こうした協議が必要とされるのも,日本の植民地支配をこの国がなお未総括のままであるからのように私には思われる。
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by gakis-room | 2009-03-20 10:24 | 韓国を語る前に | Comments(4)
2009年 03月 16日
−道徳的債務者との別れ− 9−6 ,韓国を語る前に①
6.「在日」と永住について 
 二つの事柄に注目したい。ひとつは在日韓国朝鮮人の減少である。正確に言えば,韓国・朝鮮籍を持つ者の減少である。在日韓国朝鮮人の出生数は1985年は4,838人であった。これは前年の9,363人に対して,4,525人の減少である。率にすれば,48.3%の減少である。このことは,韓国・朝鮮籍をもつ子が減少したということではない。減少の原因は,1985年1月1日から改正国籍法が施行されたからである。

 法の主要な改正点は,それまで日本同籍が取得できなかった,「父が外国人・母が日本人の子も自動的に日本国籍が取得できる」ようになった点である。この結果,日本人を母とする子のかなりが日本国籍となったと推測される。この年以降,韓国・朝鮮籍の子は毎年4-5干人代で推移している。
 
 「数字が語る在日韓国朝鮮人の歴史」(森田芳夫,明石書店)によれば,在日韓国朝鮮人同士の結婚は1974年以降50%をきり,1994年には,18.5%にまで減少している。逆に日本人との結婚は1976年には初めて50%を越え,1994年では全体の82%が日本人と結婚している。この年の在日韓国朝鮮籍の男性と日本人の女性との結婚は29%である。こうしたことが在日韓国朝鮮人(籍)の減少の主要な原因であると考えられる。なお,他に,日本人と同じように出生率そのものが減少していることも理由と考えてよい。

 おもしろいのは,「ひのえうま」の1966年,日本人の出生者は前年の75%に減少したが,在H韓国・朝鮮人の出生者も同率の減少があったことである。「ひのえうま」の迷信が在日韓国・朝鮮人にも浸透しているということであろうか。

 いまひとつは,在日韓国(籍)人団体である,大韓民国居留民団が1994年11月,その名称から「居留」をとり,「大韓民国民団」としたことである。これは,彼らが日本に一時的に滞在しているのではなく,日本に永住するという意思表示であると考えてよい。同時に,民団は名称の変更とともに,「定住外国人の地方参政権獲得」を組織の主要活動方針として掲げるようになった。これを受けて,民団の各地方組織は地方自治体および地方議会に要望書を提出し,その要望を中央政府に上申する運動を開始した。すでに前年1993年9月,岸和田市議会は「地方参政権」についての意見書を採択していた。

 「地方参政権」なり,いわゆる「公務員採用における国籍条項撤廃」について,法の理論において私には疑間がないわけではないが,しかし,重要なことは彼らの永住の意思表示である。民団も上記の二つの運動に関わる人たちも「韓国籍」保持を前提としているが,もし日本国籍を持つことになれば,「韓国系口本人」が誕生することになる。

もとより,1952年以降,「帰化」した韓国・朝鮮人はこれまでの累計で110万人近くいるわけであるから,あらためて「韓国系日本人」の誕生という言い方はおかしいといえばおかしい。しかし,「帰化」した110万人の韓国・朝鮮人のほとんどは日本的姓名を名乗っているから,私たち日本人の大部分は,「異民族の日本人」(アイヌ・沖縄を除く)を意識することなく,単一民族神話を依然として,覚け入れている。

 日木国籍を取得した外国人が本名のままで,例えば私たちの隣に朴然柱とかロペスとかツルネンとかチアリという名前の日本国籍を持ったものがおり,彼らが公務員であり,地方議員であるだけでな,国会議員である時,この国は「単一民族国家」の神話から解放され,この国の歴史と文化だけでなく,この国の将来をも相対化することをを容易にするのではないだろうか。その時,日本の国際化が実体的に始まるように思えるのである。

 私の考えでは,国の国際化とは,外に向かって国を開くことであり,この国を相対化することである。国際化とは多数の日本人が外国旅行をすることや「日の丸・君が代」に拘泥する偏狭なナショナリズム(国粋主義)とは無関係である。

 韓国の日刊紙「世界日報」の1998年8月26日(電子版)によれば,韓国政府法務部は「在外同胞の二重国籍を事実上許容」し,1999年7月1日から施行する準備にはいったという。韓国籍を保持したまま,日本国籍の取得が可能になるのである。しかし,日本の「帰化」制度は,日本への永住を考える韓国人が日本国籍を取得するにあたっての大きな障害となっているのである。

 民団中央本部権益擁護委員長の田駿は国籍取得のためではなく,地方参政権要求の中で日本の「帰化制度は表向きは国際的なものであるが,在日韓国人に対する場合,それはまさに人権を無視した内容なのである」と批判する(「自由」1995五年2月号)。具体的には帰化申請後の2年間の審査期間の中でなされる行政指導が「民族的な侮蔑」を強く感じさせるという。さらに,帰化によって「日本の戸籍に入ることは,在日韓国人の場合は過去の長い歴史の観点からしてこのことは素直に応じられないと主張する。ここでは明言されていないが,田駿が批判するのは,行政指導の形でなされるという「日本的姓名の強要」のことであろう。つまり,在日韓国・朝鮮人にとって日本国籍の取得のために,第二の創始改名が強要されるというのである。


【補注】
 「日本的姓の強要」については,1991年にソフトバンクの孫正義氏が孫正義のままで日本国籍を取得する経緯を知った時,私には複雑思いがあった。
 孫氏は国籍取得後の姓としての「孫」を役所に「『孫』という姓は日本にはない」と拒まれる。それで孫氏は妻(日本人)を夫の姓である「孫」に改姓させ,その戸籍謄本(?)をもって,日本人にも「孫」の姓があるとし,「孫」を認めさせたという。
 その後,2004年の参議院選挙にあたって民主党比例区の名簿に「白眞勲」(彼は2003年に日本国籍を取得した)の名前を見た時,私はこの国も少しだけであるが成熟したかなという思いをもった。
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by gakis-room | 2009-03-16 10:00 | 韓国を語る前に | Comments(6)
2009年 03月 11日
−道徳的債務者との別れ− 9−5 ,韓国を語る前に①
5.「反日」について (2の2) 

d0006690_782249.jpg  文禄・慶長の役(韓国では「任辰倭乱・丁酉再乱」という)でも植民地支配時代でも破壊と略奪と殺害が数多く行われた。日本のガイドブツクにのっているソウル市内の史跡のほとんどはそうした破壌と略奪と殺害に何らかの関わりをもっている。

 そうした史跡の案内板は,多くの場合朝鮮語・英語・日本語で書かれていることが多いが,日本語の案内文は概して朝鮮語の半分以下であることが多い。

 例えば,ソウルの中心にある碑閣の場合はつぎのようになっている。

【日本語案内文】
この碑は,朝鮮王朝第26代高宗(1852-1919在位)が,即位して40年,聖壽51歳の年に耆老社に入社したのと,朝鮮王朝として初めて國號を大韓帝國と改稱し,皇帝の稱號を称したのを記念すべく光武6年(1902)に建てた。

案内文の高宗の在位期間は生存年の間違いであるが,韓国語説明文は中村欽哉(「ソウル」,つげ書房新杜)によれば以下のようになっている。

【韓国語案内文】
 この碑は初めて朝鮮王朝第26代の王,高宗(1852-1919)が即位してから40年,聖寿が51歳となった歳(1902)に耆老社(50歳以上の者が入れる)に入社したことと,国号を朝鮮から大韓帝国と変え,皇帝の称号を使うことになったことを記念するために光武6(1902)年に建てた碑である。
 碑の篆額は当時,皇太子であった純宗の文字で「大韓帝国 大皇帝 宝齢望六旬御極四十年称慶記念碑」と書かれており,碑文は議政府議政の尹容善が作り,陸軍副将の閔丙奭が書き,序と頌からなっている。
 碑の位置は全国の中心地点として里程元標が立っており,碑閣の前門である万歳門は日帝時代に日本人がとりはずして個人の家の門に使用していたのを,解放後に探しだして復元したものである。碑閣は六・二五動乱(朝鮮戦争)で一部が破損していたのを1954年に補修し,1979年に完全に再復元したことで元の姿を取り戻した。

 問題は,詳しいか詳しくないかではなく,段落3の「日帝時代に日本人がとりはずして個人の家の門に使用していた」ことであろう。持ち出したのは誰であるかはわからない。日本人がひとつの記念碑を持ち出した事実を知らせる案内板が,ソウルの中心地に現存しており,日本語の案内板にはそのことが書かれていないのである。

 ソウルの町を歩くと,博物館なり史跡なりでは,熱心にノートをとる小学生たちを目にする。そばでは,母らしき人あるいは指導者らしき人が説明をしていることもある。小学生たちは,教室の中だけでなく,白分たちの文化遺産を目の当たりにしながら,文禄・慶長の役なり植民地時代を学んでいる。また,高校の国史教科書では全8章のうち,第7章はまるまる日本の植民地支配と国民の抵抗の歴史として著述されている。

 自国の歴史認識の教育は必然的に反日にならざるを得ないのである。こうした必然性を理解することなく,「いつまでも過去にこだわり過ぎる」とか,「いいかげんにせよ,韓国」とかは日本人の独りよがり,あるいは思い上がりでなければ,まさしく日本人の自国の歴史認識のいいかげんさといっていいのではないだろうか。

 しかし,だからといって,彼らがいつも道徳的債権者として日本人の前に立ちあらわれ,日本人に道徳的債務者であることを求めて止まないと考えるのは個室の中でつくられた観念ではないだろうか。また,日本人が白らを道徳的債務者と白己規定し,韓国人に道徳的債権者たることを期待して止まないとしたら,それはまさしく自虐でしかないのではないか。

 いくつかの世論調査の中のひとつであるが,高麗大学新聞放送研究所が1996年におこなった「対日世論調査の結果」(対象は全国十八歳以上の男女2千人)によれば,「植民地統治」について,
   日本に全面的に責任がある 29.2%
   植民地主義は世界の潮流   3.9%
   韓国にも責任がある    55.6%
   韓国に全面的に責任がある 11.4%
という結果である。同研究所の1989年の調査によれば「最も見習うべき国」について,日本は49.8%であり,95年の調査では,60.1%となっている。また,1993年の中央日報調査でも「見習うべき国」は日本50.2%,ドイツ12.4%,アメリカ5.6%の順になっている。

 この調査結果を紹介している鄭大均(「日本のイメージ」,中公新書)はこれを韓国の日本に対するアンビバランス(愛と憎しみのような相反する感情を持つこと)の一方であり,韓国人の日本人に対する眺めは否定的なものと肯定的なものがあり,その一方だけを思考の前提とする愚かさと危険性を指摘している。日本では近年,国際化が言われ,さまざまな領域での「共生」が志向されている。

 しかし,私が韓国と向き合うとき,私はどこに立ち,どちらを向くのであろうか。自らを道徳的債務者としたり,おめでたいとしか言いようのない「自虐史観批判」に身を寄せてはならないことだけは確かなことではあるが。


【補注】
ソウルのいわゆる名所・旧跡(とりわけ建造物)の多くは,文禄・慶長の役あるいは植民地時代に破壊,変更が行われている。だから,これらに無関係なものに出会うと私はほっとしたような気分になる。現在,景福宮の大々的な復元作業が進められているが,それは植民地以前の状態への復元であるから,「植民地時代の記憶」は「現在の記憶」とも言えるように思われる。
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by gakis-room | 2009-03-11 07:15 | 韓国を語る前に | Comments(8)