2012年 10月 10日
ショカツサイ(ハナダイコン,オオアラセイトウ)の二つの物語
d0006690_1971122.jpgハナダイコン アブラナ科 オオアラセイトウ属

オアラセイトウは牧野富太郎の命名です。別名はたくさんあって「ショカツサイ(諸葛菜)」ともいいます。

2年半前の記事,「ハナダイコンを諦めて,オオアラセイトウと呼ぶことにしました」で,「中国原産で,江戸時代には渡来しているようです」と書きました。

「国営昭和記念公園」のホームページでは以下のように書かれています。

…漢字では「諸葛菜」で、中国での呼び名によっています。別名ムラサキハナナ、オオアラセイトウ。観賞用に栽培されます。江戸時代に渡来し、戦後に種子の頒布に努めた人もあって、広く野生化しています。

この「戦後に種子の頒布に努めた人」について,昨日の毎日新聞の「記者の目:日中友好の『懸け橋』=江森敬治(編集編成局)」,「ショカツサイのルーツをたどる」で,詳しいレポートがありました。以下は毎日新聞の記事によります。

日中戦争時の1939年,東京帝大薬学科卒業後に陸軍薬剤官、陸軍衛生材料廠長などを務めた山口誠太郎さんは,南京付近でこの花を見て,その美しさに心惹かれたと言います。それで戦地で栽培していた兵士からショカツサイのタネを日本に送ってもらったようです。戦後,故郷に戻った山口さんは「日本中に広めよう」と、自宅で栽培したショカツサイのタネを希望者に配布します。山口さんの死後もこの営みは家族によって続けられます。

1972年5月,山口さんのタネをもとにショカツサイを育てた長崎市の男性が,来日した中国卓球団にショカツサイのタネを贈るというニュースが新聞に掲載されました。記事は「日中友好のかけ橋として中国に里帰りする」とショカツサイを紹介しました。1985年,茨城・つくばで開催された国際科学技術博覧会場では「ピースフラワー」と名付けられたショカツサイのタネが,世界からやってきた人に配られたとのことです。

ショカツサイを「戦後に種子の頒布に努めた人」はもう1人いました。

旧満州で満州医科大の東亜医学研究所に勤務し,その後,龍山開拓女塾の塾長を務めた花田歌です。彼女は,旧満州から引き上げ後,東京で福祉事務所に勤務しながら同人誌「女人像」に小説を発表しました。そして「ショカツサイの花でこの世界をいっぱいにしたい」と,彼女が卒業した日本女子大の友人や知人たちに手作りの封筒に入ったタネを配り続けます。そして,封筒にはショカツサイのムラサキの花が絵の具で描かれていいました。歌は1964年1月に64歳で死去しました。


このようにショカツサイを戦後に種子の頒布に努めた人について「紫の花伝書」(集広舎)として上梓したのは元集英社学芸編集部長の細川剛生さん(67)です。現在は「呉港」のペンネームで作家として活躍しているそうです。

私が「名古屋の家」の庭で見たショカツサイはこのお二人のどちらかによってもたらされたものかと思います。この花にこんな物語があるとは思いもしませんでした。来春はお二人に思いをはせながらゆっくりと観てみます。

※注:この記事は10月10日ですが,ショカツサイの花期にあわせて,タグは「3月の花の手帳」としました。

※写真はクリックすると拡大します。
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by gakis-room | 2012-10-10 18:00 | 花の手帳 | Comments(0)


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