2012年 05月 24日
1592年5月24日(天正20年4月13日),この日,小西行長の率いる1番隊18,700人は釜山に上陸しました。文録の役の始まりです。秀吉軍の総勢は1番隊から9番隊まで158,700人(全員が武士とはおもわれません,兵農分離前の農民も多数いたと思われます)です。 当時の朝鮮王朝の正規軍は2万人程度とされています。秀吉軍は量と質(秀吉軍の武士は戦国時代の実戦を通して鍛え抜かれており,また,大量の銃を保有)において圧倒し,連戦連勝で北上しました。6月11日には都の漢城(現ソウル)を落とし,7月24日には平壌を占領します。さらに一部は最北の咸鏡道にまで進出しますが,主力は平壌に留まります。 理由は補給が途絶えたからです。陸上の補給路は義兵(ゲリラ)によって寸断され,海上は朝鮮水軍に制海権を握られたままでした。補給が途絶え,人的にも消耗率の激しかった秀吉軍(小西行長軍65%,加藤清正軍45%など)は翌年,2月には平壌を撤退し,さらに,5月には漢城を放棄し,釜山に集結します。その後の和睦交渉に入りますが,交渉は決裂し,秀吉は1597年3月,14万人の再出兵を命じます。慶長の役です。 この時,秀吉軍は秀吉の「皆殺令」,「鼻斬令」によって,朝鮮の将兵はもちろん、無辜の老若男女や赤子に至るまで生死を問わず鼻を斬り取りました。それを塩漬けにして桶や樽に詰め,軍目付のもとへ差し出し,戦勝と武功の証として「鼻受取状」を貰らうためです。切り取られた鼻(首ではかさばる)は日本に送られました。その数2万といいます。 秀吉は、慶長2年(1597),この鼻を墳墓を築いて埋葬し,京都五山の僧400名を召集して「鼻塚」の施餓鬼供養を行わせました。この塚を最初は「鼻塚」と呼ばれていましたが。いつの日からか「耳塚」と呼ばれるようになりました。これが京都の耳(鼻)塚です。 ※京都の耳塚,クリックすると拡大します。
by gakis-room
| 2012-05-24 18:45
| 韓国あれこれ
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Comments(6)
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saheizi-inokori at 2012-05-24 21:27
ベルギー人はコンゴでノルマを達成しない現地住民の手首を切り落としたそうです。でも手首塚はつくらなかった。
上野の不忍池弁天島には「ふぐ塚」「スッポン塚」「メガネ塚」「鳥塚」、、塚だらけです。せめても日本人の優しさでしょうか。
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高麗山
at 2012-05-24 23:27
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それから約420年?後に、心と名前と言語を殺ぎ取りいった訳ですね !
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gakis-room at 2012-05-25 10:15
saheiziさん,
日本人の優しさ,というよりも宗教観でしょうか。さまざまな供養がありますね。
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gakis-room at 2012-05-25 10:16
高麗山さん,
420年後と言えば,今年ですよ。
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高麗山
at 2012-05-25 11:02
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お恥ずかしい、もう一度算数をやり直します。
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gakis-room at 2012-05-25 11:24
高麗山さん,
珍しい勘違いですね。 |
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