2010年 03月 03日
対外最前線の対馬,2010年の「例の会」・2
※写真はクリックすると拡大します。

d0006690_1743622.jpg金石城跡
金石(かねいし)城は対馬藩藩主・宗氏の居城です。対馬藩は10万石とされていますが,農地に乏しく,朝鮮貿易が主要な財源だったみたいです。

初代藩主は宗義智(そう・よしとし)の妻は小西行長の娘で,秀吉の朝鮮出兵時には小西行長の1番隊に属して最先鋒となります。朝鮮貿易→1番隊,そして家康から朝鮮との修復外交を命じられます。このあたりの苦悩は小説の題材にもなりそうです。

金石城には天守閣はありませんでした。二層の城門が特徴的です。藩主の館は1678年以降,別の地に移転しますが,城はそのまま残りました。その後,火災に遭いましたが,1817年に再建されます。

現在のものは1919年に解体された資材をもちいて再建されたものです。

なお,宗氏の初代義智は,これは幕藩体制によるものであり,宗氏が対馬支配をして「島主」となってから数えて19代目となります。

d0006690_1745184.jpg宗氏の家紋
街灯の図案です。右は「四目結(よつめゆい)」で宗氏の家紋です。左の「五七桐」も宗氏の家紋です。

「五七桐」は2代藩主宗義成の夫人は京都の公家・日野氏で,そちらの家紋です。義成夫人が好んで使ったところから宗氏の家紋になったようです。藩主夫人の気位の高さあるいは望郷でしょうか。

朝鮮貿易→朝鮮侵略の1番隊→家康による外交修復命令→藩主夫人の「五七桐」の愛用。そして2代藩主の時に朝鮮通信使に関わる国書偽造事件が発覚しています。宗氏の苦悩がしのばれます。

d0006690_175740.jpg西山寺
以酊庵(いていあん)は外交僧が常駐する対朝鮮外交の拠点です。創建は,対馬藩の外交僧・景轍玄蘇(けいてつげんそ)によります。

当初は別の場所にありましたが,火災により1732年にこの地の西山寺に移り(西山寺は別地に移転),明治維新時に廃寺となり,西山寺が元の場所に復帰して,現在に至っています。


d0006690_1753018.jpg以酊庵入り口
現在の西山寺には玄蘇と彼の後継者の玄方(げんぽう)の彫像,以酊庵の遺品等が伝承されているそうです。しかし,西山寺自体は以酊庵と無関係なためでしょうか,入り口には「以酊庵跡」の表示はありましたが,境内には何の案内もありませんでした。

お寺の人に伺うと,寺の入り口横が以酊庵の入り口だとのことでした。

「境内では静かにすること,ガイドは拡声器を使うな」との表示もありましたから,お寺にしてみれば,以酊庵跡見学を迷惑に思っているのかも知れない,とは私の勝手な推測です。

d0006690_1754832.jpg金田城跡
金田城(かねたのき)は「白村江の戦い」の翌年,667年に築かれた朝鮮式山城です。標高275メートルの山の尾根づたいに城壁が続きます。

新羅・唐の連合軍に大敗した「白村江の戦い」は私にはいまもって謎です。百済復興の手助けに,新羅はともかくも大唐帝国を相手に戦いを挑んだ理由は何だったのでしょうか。

大敗した後,新羅・唐の復讐に備えた対馬から大阪にいたるまでたくさんの山城を築きます。その最前線が金田城です。対馬~壱岐~太宰府へと「敵来襲」の狼煙網もあったそうです。防人もこの時から置かれました。

 ※金田城の読みは,「かねたのき」と「かねだじょう」
  の2つの読み方があるようです。

ワゴン車で狭い山道をぬってここを訪れたときはすでに夕刻になっていました。それで,尾根歩きは後日(本当に?)ということにして,入り口の碑と説明案内を見るだけで引き返しました。

d0006690_176096.jpg金田城跡説明文
おもしろいと思ったのは説明案内です。案内文は日本語の下に左が英文,右がハングルです。ハングルといえば道路標識,その他にもハングル表示が頻繁です。それだけ韓国人観光客が多いということのようです。

2日間の旅行中にも,2組の韓国人団体とあちこちで出会いました。対馬市(島全体が1つの市です)として,それだけ韓国との交流に熱心ということでしょうか。長崎県立対馬高校には2003年に「国際文化交流コース」が設置され,生徒は韓国語に堪能である,とは食堂のおばさんの話でした。

帰宅してから対馬高校のホームページを覗いてみたら,「国際文化交流コース」は別名「コリアン・コース」となっていました。必修の韓国語・韓国文化学習は3年間で21時間を割いていました。
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by gakis-room | 2010-03-03 08:53 | つれづれに | Comments(0)


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